小澤英実が薦める文庫この新刊!
- 『私の名前はルーシー・バートン』 エリザベス・ストラウト著 小川高義訳 ハヤカワepi文庫 1056円
- 『椿宿(つばきしゅく)の辺りに』 梨木香歩著 朝日文庫 759円
- 『ディフェンス』 V・ナボコフ著 若島正訳 河出文庫 1265円
(1)知らずに読めば作家本人の身辺雑記かと思うような、日常にありふれたエピソードが並ぶ。だがその些細(ささい)さこそ、語りえない想(おも)いの強さの裏返しだ。ニューヨークで長期入院中のルーシーの元に、疎遠だった田舎の母が見舞いに訪れる。断片的な追想の余白に、子ども時代の複雑な家庭環境から作家として一人立ちするまでの彼女の人生の機微が浮かび上がる。行間を読むとはまさにこのことだ。
(2)痛みもまた語りえないものの筆頭だ。物心つく前から全身の痛みに悩まされてきた従兄妹(いとこ)の二人が、双子の鍼灸(しんきゅう)師に導かれ、謎に満ちた家系の因縁を探っていく。人生の傍観者を決めこみながら、痛みによって否応(いやおう)なく当事者にさせられていく主人公、山幸彦のユーモラスな語り口も魅力。本作と緩やかに繫(つな)がる『f植物園の巣穴』もぜひ。
天才チェスプレイヤー・ルージンの成功と破滅を描く(3)は、成功よりも崩壊の過程をはるかに克明に伝え、崇高な美に魅入られた者を呑(の)み込まんとする底知れぬ深淵(しんえん)を私たちにのぞかせる。小説の半分ほどで彼は引退を余儀なくされ、以降の物語は人生という名のチェスに翻弄(ほんろう)され、盤面の升目の上で震える彼の姿を追う。ゲームの攻守が高速で反転し、やがて人生において守るべきものと戦うべきものが一体化する恐ろしさ。ルージンの心に凍(い)てつく壮絶な孤独と差し伸べられる手の温かみ。チェスを知らなくても読むたびに引きこまれ、新たな発見がある巧緻(こうち)な構成は、まさしく達人の指し手さながらだ。=朝日新聞2022年8月20日掲載