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胸えぐる孤独にもがく人 青来有一

イラスト・竹田明日香

 山中の曲がりくねった坂を、路線バスはせわしいくらいに右に左に向きを変えながら走り、やがて大きな湖にたどり着きました。曇り空を写した湖面は鈍い鉛色に輝き、夕暮れの雲に見え隠れする山々の幽玄な風情は水墨画を思わせもしました。

 東京から多くの観光客がマイカーで訪れる地域でしたが、梅雨もまだ明ける前のウィークデーで、湖畔にならぶ土産物店や飲食店も人影がまばらでした。もっともそれは賑(にぎわ)い前の静けさだったのかもしれません。コロナウイルスの感染者も減っていたので、あの週末にはおそらく人々がどっと押し寄せたのではないかと思います。

     *

 バスから降り、遊覧船乗り場に係留された白鳥のペダルボートをながめながら、予約していたペンションまで湖畔をぶらぶら歩いていきました。宿には玄関の喫煙スペースにタバコを吹かしているひとりの男性がいて、タオルを首にぶらさげたトレーニングウェア姿のそのひとはじっとこちらを見つめてくるのです。

 同じ宿に宿泊している客らしく、短く刈ったグレーの髪から察すると五十代か六十代でしょうか、日焼けした身体はほっそりとして、ジョギングの後の一服だったのかもしれません。せっかく吸ったきれいな空気がもったいないなとも思いました。

 なんとなく話しかけてきそうな顔で、こちらは人見知りをするたちで屈託なく近づいてくる人がどうも苦手、タバコの臭いも気になり、会釈もしないで通り過ぎ、チェックインをしました。二階の部屋の窓を開けたら先ほどの男性がだれかと話している大きな声が聞こえ、湖畔の静かな宿には快活すぎてちょっとばかりうんざりといった気分にもなりました。

 夕食の時間になり、別棟のレストランを訪ね、妻とふたり皿が運ばれてくるのを待ちながらだんだんと色を失っていく湖をながめていると、その男性客が現れ、テーブルひとつ離れた席に座りました。その夜の客がそれだけで、男性は飲み物を注文し、宿のオーナー夫婦らしいシェフと給仕をする女性に大きな声でしきりに話しかけていましたが、こちらを気にかけたのか、メインのアーモンドソースのかかったマスのムニエルが運ばれてきたころには口数も少なくなり、スプーンが皿に触れる音だけが響いていました。窓からながめる湖は水面にわずかな光が長く残っていましたが、やがて闇に消えていきました。

 窓が黒い鏡に変わり、食後のコーヒーが運ばれてきたころ、男性が「実は……」と給仕の女性にふたたび語り始めました。聞くともなく聞いたのは、奥さんがしばらく前に亡くなって独り暮らしを始めたら、自分も自宅で倒れ、たまたま訪ねてきた友人が救急車を呼んでくれて危うく一命をとりとめたという話で、以前、この宿に夫婦で泊まり、亡くなった奥さんがとても気にいっていたので、今日は亡き妻を偲(しの)んで訪ねたのだといいます。ああ、寂しかったのか、だれかと話をしたかったのだとそのひとが抱えこんだ孤独感にようやく気がついたのです。

     *

 音楽や読書に満たされる豊かな孤独もありますが、鋭く胸を抉(えぐ)ってくる孤独もあります。夜中に目覚めてわっと叫びたくなる孤独というか、孤立感に襲われることは自分自身ないわけでもなく、年齢を重ね、パートナーを失い、自らも危うい目にあうとひときわ身に沁(し)みるのでしょう。だれかとむしょうに話をしたいときがあって、そんなときには耳を傾ける、うなずく、寄り添うといったシンプルでピュアなつながりが癒やしにも救いにもなるはずです。あのひとは孤独から逃げようとしていたのかもしれません。人見知りの仏頂面はやめ、笑顔でうなずくくらいしたらよかったと今もちょっと胸がうずいて、夕暮れ時になると湖畔をひとり走り続ける初老のランナーの姿をなんとなく思い浮かべるようになりました。=朝日新聞2022年8月15日掲載