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鯨井あめさんに何になりたいかを考えさせた絵本「ザガズー」

『ザガズー』(好学社)

 4歳か5歳の頃、家の本棚に大きな絵本があった。不思議な題名と軽快な文章、カラフルで味のあるイラスト、何よりもへんてこなストーリーが印象的だった。かわいい赤ちゃんがはげたかになったり、イボイノシシになったり、りゅうになったりするのだ。
 『ザガズー じんせいって びっくりつづき』。今回は、この絵本を話題にしたい。

  まず、あらすじを記そう。

  あるところに、幸せなふたりがいた。ふたりは毎日楽しく暮らしていた。ある日、ふたりのもとに小包が届く。なかには小さなピンクの生き物(赤ちゃん)が入っていた。生き物には名札が付いていた。名前はザガズー。ふたりはとても喜び、ザガズーと共にますます幸せな日々を送った。

  が、ある朝ふたりが目を覚ますと、ザガズーは大きなはげたかの赤ん坊になっていた。はげたかは昼夜を問わず金切り声で鳴くので、ふたりは大変困った。またある朝、ザガズーは小さなぞうになっていた。ぞうは鼻で掴めるものならなんでも口に入れてしまう。またある朝、ザガズーはイボイノシシに、ある朝はりゅうに、ある朝はこうもりに。

  繰り返される変身にふたりは、「これじゃ あたまが へんになっちゃう」「せめて ひとつのもので いてくれないと」と困り果てる。するとある朝、ザガズーは妙な毛深い生き物になっていた。「ぞうのほうが ましだったわ」「イボイノシシでも よかったんだ」と嘆くふたり。生き物はずんずん大きくなり、毛深くなっていく。ふたりは頭を抱える。「わたしたち どうなるの?」
 ところがある朝、妙な毛深い生き物は、優しくてお行儀のいい若者になっていた。

  という物語である。
 上記のあらすじは、途中で終わっている。ここではオチを伏せるが、クスリと笑えるあたたかな結末なので、気になった方はぜひご一読いただきたい。

  この絵本を初めて読んだとき、私はわくわくした。次は何に変身するのかと、ページをめくる手が止まらなかった。と同時に、人間という生き物にもわくわくした。

  当時の私にとって、絵本のなかで最も身近な存在はピンクの生き物(赤ちゃん)だった。その生き物が変身を繰り返して、人間の大人になった。つまり、私もいつか変身して大人になる。いつかりゅうになる! 火を吐く! でもどうやって変身するんだろう? 絵本に変身シーンは描かれていない。そもそも、赤ちゃんが別の生き物に変身して、でも最後は人間になる、その意味がわからない。この絵本は何を伝えたいんだろう?

  わからなかったことほど記憶に残りやすいので、この本は長らく頭の片隅に留まり続けた。ふとしたときに思い出して、「よくわからない絵本だったな」と考えてきた。そのうち、ぞうやりゅうが比喩であったことに気がついた。

  ピンクの生き物は成長する。はげたかの赤ん坊みたいに鳴き(泣き)叫ぶし、小さなぞうみたいにそこら中のものに体当たりするし、イボイノシシみたいに部屋中を汚しながら走り回る。りゅうみたいに怒って火を吐き、他人に当たることもあれば、こうもりみたいに部屋の隅でじっとしていることもあるだろう。やがて正体不明の存在になって、「この子はどうなってしまうのだろう」「このままで大丈夫だろうか」と大人を不安にさせる……。
 しかし最後、ピンクの生き物は、優しい若者になった。たぶん、優しい若者になれたのだ。

  いまの私は、なんだろう。はげたかとぞうとイボイノシシは、通り過ぎたように思う。りゅうも残念ながら過去になった。ならばこうもりだろうか。それとも得体のしれない生き物だろうか。

  きっと、何を経てきたかは人によって違う。イヌ、ネコ、ブタ、キリン。カジキマグロになった人もいるし、オカメインコになった人もいるだろう。ハシビロコウやウォンバット、ユニコーンだった人もいるかもしれない。クマです、いやクマムシです、ダンゴムシやってました、カタツムリでした、タコです、トラです、なんて人も、きっといる。

  その人は何かの姿をしていて、その人だけの変身を繰り返して、これから何かになっていく。変身に正解は存在しない。イルカがジャッカルになってもいいし、ウシがトンボになってもいい。たったひとつの何かである必要は、どこにもないのだ。ヒトがヒトでいる時間なんて、人生のうちでそれほど長くないのかもしれない。

  この絵本を読み返すたびに考える。
 
私はいま、何か? 何を経てきたのか? 何になりたいのか?
 
可能なら優しい若者になりたいけれど、ヒトになるのはまだまだ難しいなぁ。