男女4人×恋愛要素ナシ
――この小説はジュエリーデザイナーを辞めることになった45歳の永瀬から始まり、母親の介護に悩む40歳の永瀬、高峰の夫婦問題に巻き込まれる35歳の永瀬と、永瀬を視点人物として5年刻みでさかのぼっていきます。読み手は「この人どうしてこんなに臆病なの?」「こういうことがあったのか」など、徐々に人物の背景がわかってくる面白い仕掛けですね。
ひとつの家族の30年を書いたことはあったのですが、逆順にしたのは初めてです。最初は中学生の頃のシーンから書いて、あとで逆に並べようと思ったのですが、どうもピンと来なくて。現在の姿から過去に何があったかを想像するほうが書きやすかったので、掲載どおりの順番で書くことになりました。こんなことがあったなら、ここでこう言わないだろうな、と戻って直してを繰り返しました。4人のことをずっと考えていたので、もはや存在しないはずの記憶があるんですよ。途中から本当に彼らが同級生だったような気になって。
――男女4人の同級生の物語なのに、恋愛要素が出てきませんね。永瀬は高峰との仲を周囲から勘ぐられ続けますが、自分は「恋愛との相性が悪い」と興味を持ちません。
どうしても恋愛要素を入れると、盛り上がっちゃう。そういうわかりやすい盛り上がりイベントをなるべく外して書いてみようと思ったんです。じつは、最初のプロットでは同級生の一人が死ぬところから物語が始まっていたんです。でもだれかの死というのもやっぱりドラマになりすぎる。そこを外したところで書けるものがある気がしました。
時代の影響もあると思います。永瀬は恋をしないわけではないけれど、その優先順位がたぶん10位くらいなんです。昔は「好きな人がいないなんておかしい」っていう風潮がありましたよね。だから、学生時代の永瀬は架空の好きな人まで作って女子たちの輪に入ろうとしますが、だんだん恋愛に興味がない自分を受け入れていきます。
――永瀬は要所要所で、高峰、森くん、しずくの救いとなる言葉や行動ができる人ですよね。恋愛に没頭しない分、人を当たり前に人として大切にできるからなのかなと思いました。
それもあるかもしれませんね。なぜか周りの人から打ち明け話をされがちな人っているじゃないですか。永瀬もそういう人物として書きました。そうやってみんなの本音を聞いているうちに、同じ出来事でも人によってとらえ方が違うことに気づいたり、Aさんの正義もBさんの正義もわかる、と色々考えるようになると思うんです。それが行動に表れるのかもしれません。
失敗しても、だいじょうぶ
――この小説は男女を超えた大人の友情の物語だと感じました。大人になると、既婚/未婚や仕事の充実度など、いろんな違いが生まれて距離ができるのに、この4人は性格も職業も人生の浮き沈みもバラバラだけど、ずっとかすかに繋がっている。
「会えば学生時代のノリにすぐ戻れる」みたいなのが理想とされていると思うのですが、私は昔と同じ付き合い方じゃなくていいと思うんです。変わったら変わったなりの付き合い方をすればいいんじゃないのかな。秘密を常に共有しなきゃいけない、ということもないし。距離も近づいたり離れたり、その時々で変わっていいと思うし、変わることの面白さもあると思います。
――30年の間に4人それぞれにピンチの時代があって、まるで順番のように手を差し伸べあうところも素敵でした。
きっとみんな「助けるぞ」と思って助けているわけじゃないと思うんです。目の前につらそうな人がいるから、当たり前に声をかけているだけで。助けたり、助けられたりという役割も、時と場合によって変わっていく。たとえば、高峰はお金持ちの家の子で、容姿もよく、モテるタイプだけれど、それだけいいカードを持っていても、失敗するときは失敗する。ずっと助ける側の人、助けられる側の人でい続けることはないんだと思います。
――そのイケてたはずの高峰が失敗することに対して、ある人物が「高峰は、かっこつけてない時のほうが『味わい深い』」と言っていたのが素敵でした。
私はこの小説でそれが言いたかったのかもしれません。失敗は恥ずかしいことじゃない。
永瀬も間違える人なんです。しかも「絶対これが世間では正解とされている」とか、「みんなはそうしている」とか世間に合わせたときに失敗する。自分が心から思った時の判断は間違ってないんですよ。それに30歳を過ぎてじわじわと気づいていって、やっと自分の道が見えてくる。とくに何かがあったわけじゃなく、年齢とともにわかることってある。人間は絶対間違える生き物。だから、失敗をそんなに恐れなくてもいいと思います。
今、若い人ほど失敗を恐れすぎているように思います。高峰のようにいいカードを持っていても、失敗するときは失敗するし、家庭に恵まれなかったしずくのように、いいカードを持っていなくても、自分がこれと決めたことを突き詰めることで道ができていく人もいる。「こういうことを身に付けておけば、こういう大人になれる」とか、「スタートがだめだからこの先もだめだ」とか、考えすぎないでいいんじゃないかな。
――作中に中学の国語の教科書に載っていた魯迅の「故郷」が出てきます。「故郷」には〈ヤンおばさん〉という人物が登場しますが、永瀬が学生時代バイトをしていたのも「ヤンおばさんの店」というファミリーレストランですね。
私が高校に入学したとき、別の中学からきた子たちと仲良くなったきっかけが、この「故郷」だったんです。ヤンおばさんは「コンパスのような脚」という設定なのですが、体育の時間、脚の細い先生が地面に脚で円を描いていて、「ヤンおばさんやん」って誰かが言ったら「わかる~っ!」ってみんなで盛り上がれたんです。それを思い出して、もう一度「故郷」を読み直してみたら、結びの〈希望〉について書かれた文章がこの小説にぴったりで、入れることにしました。
国語の教科書って、同級生の共通言語になること、ありますよね。うちの子が、水道の蛇口から出た水を手ですくって飲むことを「メロス飲み」って言っていて(笑)。「ほかのみんなもそう呼ぶの?」と聞いたら、そうだと言うんです。考えてみれば、みんなが同じ小説を読んだ経験があるって、面白いですよね。この「故郷」についても、読者の方に「あったあった!」と懐かしんでもらえたらうれしいです。
35歳から小説を書き始めて
――これは30年かけて4人が大人になっていく物語でもあると思いますが、寺地さんは年を重ねていくことをどう考えていますか。
私は今47歳なんですけど、大人ってある意味では自由になっていくことだなと感じています。よく校長先生なんかが子どもに向かって「君たちは無限の可能性がある!」とスピーチするじゃないですか。でも選択肢がたくさんある中から選ばないといけないのってちょっとしんどいなと思うんです。大人になると自然と選択肢が絞られていく。そのことが、ある意味ですごく自由だと思うんです。もう自分の得意・不得意もわかっているし、人の目も気にしなくなってくるし、あとはその道をまっすぐ突き詰めていけばいいだけ。
――ご自身も大人になって楽になったと感じますか。
私は35歳になってから小説を書き始めたのですが、それまでは世界や他人のことが怖かったんです。よくわからないから、敵のように感じていました。でも、小説を書くと、世界を、人を、見つめないといけない。例えば誰かに嫌なことを言われた時、小説を書く前だったら、「この人嫌い」と思うだけだったんです。でも、小説を書くという行為を手に入れてからは、「なんでこんなこと言ったんだろう」って考えるようになりました。そこから、やっと本当の意味で人と話せるようになった気がします。
私は、小説でしか他の人と喋れないんだと思います。小説を書くようになって、世界が怖くなくなりました。それは本を読むことでも同じです。わからないことをわかろうとすること、わからないことが自分にはまだあることにワクワクすること。本を読み、書くことに出会えて私は楽になりました。
――この物語もまた、読者が呼吸をしやすくなるような物語だと思います。どんなふうに受け取ってほしいですか。
20代の人は20代の永瀬たちを見て思うことがあるだろうし、40代の人は40代の永瀬たちを見て「もうちょっとしっかりしなよ!」って言いたくなるかもしれません。そんなふうに、この4人を友達みたいに思って読んでくれたらうれしいです。