鴻巣友季子の文学潮流(第23回) 「ダムロッシュ教授の世界文学講義」からグローバル時代の「世界文学」を考える

国際ブッカー賞の今年のロングリストが発表になった。ちなみに、これはブッカー賞とは別の賞なのでご注意ください。ブッカー賞は英語で書かれた小説、国際ブッカー賞はそれ以外の言語の英訳、つまり翻訳小説を対象にしている。後者は作家の国籍や創作言語は不問だ。
今回は日本文学からも川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』(Asa Yoneda訳、グランタブックス刊)と、市川沙央『ハンチバック』(Polly Burton訳、ヴァイキング刊)がリスト入りしている。ひと昔前には、作家のデビュー作が英語圏の大きな文学賞のロングリストに入ることはなかったろうと、しみじみ感慨深い。
ブッカー賞は新人のデビュー作も候補になるし、受賞することもある賞だが、ゼロ年代前半以前の英米では、谷崎・川端・三島のビッグスリーと「文豪」以外の、単行本はまだ一冊という気鋭の作家が翻訳される可能性自体が限りなく低かった。近年のアメリカ、イギリスの翻訳出版をとりまく状況はそれぐらい激変しているのだ。
さて、こうして国際文学賞が話題になると出てくるのが、「世界文学」という言葉だ。これは一体なんなのか? 世界で広く読まれていれば世界文学なのか? どの言語に訳されてもわかりやすいグローバル文学のことなのか? 世界文学という複合語には、現代の「世界」が目指しているという普遍性と、「文学」が本来志向している特異性がぶつかりあっていると私は思う。
そんな世界文学を考えるにあたり、まず引き合いに出さなくてはいけないのが、「世界文学」という概念の提唱者である19世紀のドイツ作家ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテだ。友人らと交わした書簡でその構想を書き記したのだった。こんなことが提言された(大意要約)。
・一つの国の中に留まっている「国民文学」にはもはやさしたる意味がない。
・ある作家や作品を本国の人間がいちばん理解できると思うのは間違いだ。ときに異邦の読み手のほうがより明晰に理解し、よりよく評価する。
・つまり、世界文学とは国民文学をたんに並べたものではなく、異文化・異言語における相互受容のなかで形成される有機的な文学ネットワークだということ。
さて、世界文学を考えるにあたり広くおすすめしたい本が出版されたので紹介したい。デイヴィッド・ダムロッシュによる『ダムロッシュ教授の世界文学講義 日本文学を世界に開く』(沼野充義監訳、東京大学出版会)だ。東京大学での連続講義を元に書かれた日本オリジナル版である。
いま欧米圏で人気うなぎ上りの日本文学が、近代以降どのように世界の文学とその受容のネットワークに接続していったかを解き明かすいたくスリルに満ちた一冊だ。帯文には「日本文学は孤独でも特別でもない!」と書かれている。たとえば、1890年代の同時期に文学の「周辺」から「中核」に躍り出た例として樋口一葉とジェイムズ・ジョイスが対比され、モダニズムの影響下にある芥川龍之介と魯迅が並び論じられる。
その背景にあったのは雑誌と新聞という媒体、つまり発表機会の爆発的な増加だった。1890年代に文学気運の発酵があったのは、アイルランドも日本も変わらないというのだ。日本は開国したばかりだったが、急速に発達した出版資本主義と旺盛な翻訳意欲でもって、自然主義文学の国際的潮流には合流することができた。そのため、次に来たモダニズムの波にもついていくことができたのだろう。
ダムロッシュの見解では、樋口一葉自身は外国文学にはとくに関心を寄せなかったが、それを批評し評価する側にいた森鴎外などが、世界文学を吸収、翻訳、紹介する最先端にいたため、樋口は自然とモダニズム文学として受容される土壌があったと。
ちなみに、『源氏物語』もモダニズムの「影響」を受けている。平安時代の物語が20世紀の文学運動の影響を受けるというのは逆さまであり、奇妙に聞こえるかもしれないが、『源氏』は読まれ方を通してモダニズム化したのだった。
それまで、『源氏物語』は日本国内ではおもに和歌を中心とした抜粋が読まれていた。あの大作を通読するという習慣はあまりなかったのだと。しかし『源氏』を英訳したアーサー・ウェイリーは韻文の大部分をばっさりカットして、この物語をヨーロッパの「小説」、あるいは「洗練された大人のための童話」に似せたのだとダムロッシュは解説する。
そのころ国内でも西洋の小説なるものの影響で、『源氏』の完全版がようやく人気になり、小説のように一つの作品として通読されるようになったという説が引かれている。
ここで、『世界文学講義』に先立つダムロッシュの伝説の書を紹介しておかなくてはならない。『世界文学とは何か?』(2003年刊、邦訳2011年刊、奥彩子、秋草俊一郎、桐山大介、小松真帆、平塚隼介、山辺弦・訳 )という大著が、国書刊行会から邦訳刊行された際には、日本の外国文学界隈も騒然となったものだ。
『世界文学とは何か?』は近現代の主要な翻訳・文学理論をあげながら、流通・翻訳・生産の3部にわけて、世界文学の捉えがたい姿を浮き彫りにしようとする革新的な世界文学論だ。大部の著なので、ここでは本書におけるダムロッシュの名言を二つだけ要約して挙げておこう。
・文学の必読書というのは与えられた「名作」一式ではなく、個人の読みのモードである。
・世界文学とは翻訳されてなお豊かになる作品のことである。
例えるなら星座だ。国や文化圏、それどころか個人によって、星座の見え方感じ方は違うはずだ、と。なるほど、かつての「名作」なるものには、世界中どこに行っても不動の評価、一貫した意味があるとされた。だからこそ、文学後進国だった日本は「本場の正しい読み方」を目指して精進したのだった。
ところが、ダムロッシュに言わせれば、世界文学の主な特徴とはむしろ「可変性」なのだ。翻訳という営為を通しながらも、新しい土壌のなかでより多くを得られる作品こそが世界文学だ、と。
では、改めて世界文学とは何か? ダムロッシュは『世界文学講義』で、世界文学論に最重要の先行研究を参照しながら論じることになる。第Ⅰ章では、古典学者マルセル・ドゥティエンヌの「比較不可能なものの比較」、第Ⅱ章では前述のモレッティの「世界文学への試論」(『遠読 <世界文学システムへの挑戦>』収録)、第Ⅲ章ではポストコロニアル学者レベッカ・ウォルコウィッツの『生まれつき翻訳』と、比較文学の創始者とも言えるH・M・ポズネットの『比較文学』など。
モレッティの「遠読」という概念および方法論はなかなか刺激的なもので、大きな比較研究のためには、原文精読というものは不要とした面がある。ポストコロニアル以降、欧州言語の文学だけを比較しているのでは間に合わなくなったが、すべてを原典で読み尽くしてから研究にかかるのは不可能だから、まず全体図を捉えるため、コンピュータ解析や樹系図などのビジュアルツールを駆使しつつ、翻訳も活用していこうとモレッティは提言したのだった。グローバルな視野で研究するためには、「一行の原典読解もしない、他人の研究(引用)のよせあつめ」をも利用すべしという挑発もあった。
このモレッティの著作への応答として書かれた本の一つが、ダムロッシュの『世界文学とは何か?』だった。今回の『世界文学講義』でもふたりの対決は持ち越されていると言えるだろう(とはいえ、ダムロッシュも日本文学は英訳で読むという「遠読」方式を取り入れている)。
世界文学と近代化とグローバリゼーションについては、とくに第Ⅱ章とⅢ章で論が展開される。そこで使われる用語に先にも使った「中核」「半周辺」「周辺」というものがある。これを聞いて柄谷行人の著作や、柄谷が引いているウォーラーステインの説を思い起こす人もいると思うが、実際、関係はあるのだ。
ややこしいのだけれど、ダムロッシュが構図を借りたというモレッティが柄谷の『日本近代文学の起源』の英語版の序文(フレデリック・ジェイムソンによる)を読んで、この大胆な試論の発想を得たそうだ。かいつまんでいうと、文学は先進の中核からより後進の半周辺、周辺へと広がっていく。そこで外来の形式と、土着の内容、土着の声との折衷が起きる。そして、翻訳というのは、格下の文学が格上の文学を輸入して、進んだ思考や文化をお借りする(対外負債)ものだということだ。ただし、貸し方は借り方には頓着していない。
文学(元)後進国の人間としては若干「むむむ」と思うが、ダムロッシュ先生は「まあまあ」と宥めるように、モレッティはこうして「文学」というヨーロッパ的概念が世界規模で伝播していく、そうした現象を研究する方法を示してみせたのだ、とまとめている。
しかしその発達と伝播の進路は本当に一方的なものだろうか? モレッティの理論を借りつつもダムロッシュはときに反論し、文学の普遍性と特異性の間に切り込んでいく。
世界がグローバリズムを経験するのは今回が初めてではない。たとえば、古代ギリシアのヘレニズム時代にもそれはあった。前述のポズネットはそうした歴史の繰り返しにも鑑みながら、19世紀後半にして、現代のグローバル文学のディレンマと危機を鋭く言い当てていた。ダムロッシュの著から引こう。
世界文学というのはもはや、ある特定の共同体のために書かれるものではなく、「世界作家」はすべての人のために書くことで、結局は誰のためにも書いていないという危険を冒している。想像力も害を被る。「この普遍主義には〔中略〕洋の東西を問わず、文学作品の偽物がつきものである」。<中略>言語も衰退し、作品は型にはまった人工的なものになる。ポズネットはすでに、今現在流行している世界文学に対する批判を先取りしている。その批判とは、世界文学は翻訳されるために書かれていて、一つの社会とつながり真に生きた言語につながっている作家が本物の読者に向けて書いているものとは違い、真摯な文学などではなく浅薄な娯楽文学を提供しているにすぎないという主張だ。
だが、そのようなグローバリズムの波に唯々として浚われない世界文学も生まれ得るのではないか。
ダムロッシュが挙げる一人は、20世紀初頭にして「全世界の友だち」と称された『少年キム』の作者でインド出身のキプリングと同じく5歳で「周辺」の国からイギリスに渡ったカズオ・イシグロである。
イシグロの端整な英語はなにかから翻訳されたような微かな異化効果が魅力となっている。イシグロいわく、「ある意味、翻訳調っぽい言葉遣いにしないといけないのです。つまり、<中略>英語の背後に外国語が息づいていることがそれとなくわかるようにしなくてはならないのです」
そうした言語戦略をもって、イシグロはジョゼフ・コンラッド、ラドヤード・キプリングという英語の非母語作家の系譜にありながら、新しい言語感覚を導き入れたのだった。テクストに漂う「翻訳」への意識はイシグロの先達であるサルマン・ルシュディにも、同時代の村上春樹にも見られ、のちに原文のない「生まれつき翻訳」と呼ばれるようになるものだ。
イシグロの作品は生まれつき翻訳なのであって、「翻訳されるのを意識して書く」ことに彼はポズネット同様に批判的だった。しかしその考えは今世紀に入って少し変わっていったと私は感じているのだが、ダムロッシュもその点については指摘している。
本書の巻末に収録された監訳者沼野充義との対談がびりびりする熱さなので、ぜひ最後まで読んでほしい。ダムロッシュは「作家が他国の文学に直に接するか否か以上に、作家はより大きな世界的プロセスの一部」だと述べる。この巨大な循環については、私もまったく賛成したい。
その一方、彼は「比較の暴力」という言葉を使う。巨視的な視点で異文化同士を比べ論じることで得られる成果と、そこに生まれる様々な乱暴さと看過について言っているのだ。たとえば、『源氏物語』は「小説」ではなく「ロマンス」として捉えるべきだとフランスの批評家が言ったとする。この発言の背景には、すでに確立された西洋的な大文字のRomanceの概念と歴史がある。
そこで沼野は前述の樋口一葉をモダニストとして論じることについて、鋭い問いを投げかける。比較のコンテクストがグローバルになりすぎて、「ミクロな国民文学のコンテクストの『常識』」を無視したり否定したりするおそれはないかと。確かに日本の一葉研究者からすれば、擬古体で書いた一葉を自然主義の再創造をなしとげたモダニスト作家と分析するのは驚きだろう。
他にも沼野の問いかけが刺さってきた。この本を読んだ日本人読者のなかには、「世界文学とは要するに、英語に訳され、世界的に流通する文学のことだと誤解してしまう人」もいるのではないか。あるいは、「比較できないものを比較する」という手法でいくと、「何でも比較できてしまう」のではないか。私が英語という巨大な共通言語を翻訳しながらつねに気にかかっていることだ。沼野はダムロッシュに、グローバルな「遠読」と学問的な「精読」の見事な融合にこそ、あなたのオリジナリティはあるのではないかと述べている。
これらはそのまま、グローバル時代の「世界文学」の読み方への問いかけでもあり、それらに向かいあうとき、ダムロッシュの言うように、世界文学は「排他的な島国根性のへの解毒剤」となり、広く読まれながら「幸福な少数者」の愉悦になり得るのではないか。