沙都子と静生は9年前、子供をつくらない約束で夫婦になった。だが、物語の冒頭で沙都子は静生に告げる。〈なんか、全然生理が来ないんだよね〉。時を同じくして、病気で入院した静生の母は尊厳死を希望する。命をめぐる繊細なテーマを、軽やかに描いていく。
演劇ユニット「iaku(いあく)」を主宰する気鋭の劇作家が初の小説に挑んだ。2017年に初演した舞台「粛々と運針」を原案にしている。演劇は、稽古場で俳優と議論を重ねて完成させる。小説の執筆は、想像力を相棒に1人でやりとりを繰り返した。「紙の上が稽古場になりました」
随所に言葉選びでの逡巡(しゅんじゅん)が描かれる。静生は、外出する時刻が迫っても支度を始めない沙都子への声かけで考える。〈夫婦間には“ちょうどいい言い方”というものがある。コツは、責めない、命令しない、判断は相手に委ね、朗らかに(または穏やかに)言う〉。選んだ言い方は、〈準備しちゃった方がよくない?〉。言葉の暴力性に敏感であろうとする著者自身がにじみ出る。「劇作家・演出家の立場だと、発言が意図せず力を持つことがある。俳優にどう届くか、日々悩み、考えます」
沙都子と静生は仲の良い夫婦だ。でも、隠し事もある。物語の終盤、静生は沙都子の言葉に疑問を抱く。だが、それ以上詮索(せんさく)しないことを選ぶ。〈それぞれがそれぞれの大事な箱に仕舞(しま)い込んで、生活を続けていく。それでいいのだ〉。夫婦でもすべてを公開する必要はない。〈何十年か先、二人の間でこの話題が挙がったなら、そのときは穏やかに箱を開けて、一緒に見つめよう〉
「相手が気付かないような『見えない許容』は誰もがしている。人との距離感、適切な振る舞い方、振る舞えなさを一緒に見つめる作品を、作り続けたい」(文・田中瞳子 写真・小山幸佑)=朝日新聞2022年10月22日掲載