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「女たちの沈黙」書評 男社会を疑わぬ古典を語り直す

評者: 犬塚元 / 朝⽇新聞掲載:2023年02月25日
女たちの沈黙 著者:パット・バーカー 出版社:早川書房 ジャンル:欧米の小説・文学

ISBN: 9784152101983
発売⽇: 2023/01/20
サイズ: 20cm/457p

「女たちの沈黙」 [著]パット・バーカー

 「怒りを歌え、女神よ」。『イリアス』は、アキレウスの怒りから語り始める。総大将アガメムノンが、彼の「戦利品」を召し上げたことが、怒りの原因だった。
 「戦利品」とは掠奪(りゃくだつ)した女性のこと。トロフィーのように見せびらかす武功の証しであり、性奴隷であった。
 ブッカー賞作家のこの小説は、アキレウスの「戦利品」となった19歳のブリセイスの視点から、名高いトロイア戦争の物語を語り直す。男たちの争いと友情を描いた『イリアス』が沈黙する、女たちをめぐる語りがここに補われる。それは、殺される側、性奴隷とされる側のストーリーだ。
 ヨーロッパ文化の礎として位置づけられてきたアキレウスの物語は、虐殺と性暴力に根ざしている。読者は嫌でもそう気づかされる。こうした古典を語り継いできた西洋世界は、感覚が麻痺(まひ)しているのではないか、とも考えさせられる。
 キャンセルカルチャーの時代に、このようなプロットは今や珍しくはないのかもしれない。女性の視点からの語り直しとしては既にミラー『キルケ』もある。
 それでも、ここに一人称で語られるブリセイスの内面世界には、一読の価値がある。男社会にあって沈黙を強いられるがゆえ、歌われることのない女性の怒り。それは、私たちの世界とも一続きだ。そんななかでも、抗(あらが)う気持ちを失わず、冷徹に思いをめぐらす主人公の姿に引き込まれる。
 「かつてどんな男もしたためしのないこと」。トロイア王は、息子を殺したアキレウスの手に接吻(せっぷん)してそう語る。対照的にここで主人公は、「これまでも無数の女がせざるをえなかったこと」といって、「夫と兄弟を殺した男のために脚を広げている」と思い起こす。象徴的で圧巻の場面だ。
 『イリアス』が語らずに、余白のまま残したブリセイスの未来はどうなるのか。彼女自身の物語はどのように立ち上がるのか。小説の最大の読みどころを書評で暴くのは野暮(やぼ)だろう。
    ◇
Pat Barker 1943年生まれ。英国の作家。著書に『アイリスへの手紙』『越境』など。1995年ブッカー賞受賞。