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母を思って、日常に追われて 青来有一

イラスト・竹田明日香

 コロナウイルス感染症もほぼ終息して、高齢者施設の面談制限も終わり、週に2度、母に会いに行くようになりました。高齢者が相手なのでマスクをしてなお注意をしながらですが、まずは一安心といったところです。母が喜ぶ甘い和菓子などを手土産に電車に乗り、近道となるスポーツ公園を横切って施設まで歩いていきます。

 スポーツ公園のトラックのまわりの芝生のエリアは、今、シロツメクサの白い花がたくさん咲いていて、青々とした長い茎と葉に踝(くるぶし)まで深々と埋まり、思わず立ち止まってしまうほどです。

 コロナ禍のあいだ、母との面談は断続的に途絶え、長い時には半年以上も顔を会わせなかった時期もありました。一時的に制限がゆるんでも、玄関先から声をかける短い面談となり、携帯電話で話ができたことが、唯一の救いでした。

 3年前、新型コロナウイルスの感染で世の中が騒然となった頃は、これからどうなるものかと不安になり、親族と辛い別れを経験した方の話も身近に聞いて、胸が潰れるような重い気分になったこともありました。ただ会えない日々が続いて、それが日常になると、我ながら薄情なもので、母のことなどすっかり忘れている自分がいて、なにかしらうしろめたさを感じたこともあります。

 30代、40代は自分のことで手いっぱいで親のことなど忘れて生きてきた気もします。父が病に倒れた15年ほど前だったでしょうか、親の老いをようやく意識するようになりました。特に父が亡くなり、母がひとり暮らしになると、さすがに放ってもおけなくなり、夜には必ず電話し、家をしばしば訪ねたりするようになりました。

 80代の半ばごろ、母は同じことをくり返し話すようになり、記憶も混乱しはじめ、それでも病院に行くことは拒みました。結局、なんとか説得して専門医に連れていくまでに1年ほどかかり、予想していたとおり、アルツハイマー型認知症との診断でした。足腰はしっかりしていた母は、それでもデイサービスやヘルパーの支援をかたくなに拒み、自宅から動きません。四六時中、家族が付き添うこともできないでヤキモキしていましたが、母の古い友人が母の暮らしを支えてくれました。母が自らお願いして、毎日、家を訪ねてくれるようになり、買い物など身のまわりの世話をしてくれたのです。

 その方が訪ねることができなくなると、母もようやくヘルパーの支援を受けるようになり、毎夜、私も仕事を終えると実家を訪ね、夕食をいっしょに食べ、入浴を見守り、寝る準備を整えて、夜遅く帰るという日々もありました。

 結局、夜中に母は転倒、腰を痛め、病院での治療とリハビリに続くかたちで自然に施設に移りました。今は認知の症状が重くなり、家の心配はしても、「帰りたい」とも言わなくなりました。

 母は自分の年齢を忘れていて会うたびに「93歳になったよ」と教えます。母は「へえーっ」と大仰に驚いて、「そんなになるの、84歳ぐらいと思うてたあ」とつぶやき、それから必ず「長生きして、ごめんね」と詫びるのです。特に深い意味はないと思いながら、「100歳までがんばって」と苦笑いとともに答えはするものの、自分の中の虚(うろ)に潜んでいる暗いものを突きだされるような「うしろめたさ」を感じないではいられません。

 母を訪ねる途中、白く点々と咲くシロツメクサをながめ、いつもの癖で花ことばを調べました。「私を思って」というのが、シロツメクサの花ことば。「復讐(ふくしゅう)」ということばも、そこから生じるという解説がありました。

 93歳の母の「長生きして、ごめんね」ということばが、親のことなどすっかり忘れて生きてきた息子の中の「うしろめたさ」と結びついて、最晩年の母と息子の絆(きずな)になっているのかもしれません。=朝日新聞2023年5月22日掲載