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「口訳 古事記」書評 規格外の文体 古典を解き放つ

評者: 稲泉連 / 朝⽇新聞掲載:2023年06月10日
口訳古事記 著者:町田 康 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065312049
発売⽇: 2023/04/26
サイズ: 20cm/474p

「口訳 古事記」 [著]町田康

 「ブヨブヨをちゃんとしろ、と言われてもねぇ。どうしたらよいのか。見当もつかない」
 「そうねぇ。じゃあ、とりあえずその矛でかき回してみたら」
 「矛。ああ、矛」
 ――『古事記』の始まりに描かれる、伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)による“国産み”の一場面。二柱の神がまだ固まっていないクラゲのような地を前に交わす会話である。
 日本最古の神話であるこの『古事記』を、町田康による口語訳で読む。神々の荒々しさや猥雑(わいざつ)さが規格外の文体で紡がれる本書の頁(ページ)を夢中でめくりながら、そのことがもたらす至福な時間を何度も嚙(か)みしめた。
 天孫降臨の際、案内役の猿田毘古命(さるたびこのみこと)に出会った天宇受売神(あめのうずめのかみ)が「汝(ワレ)、なんじゃい。どこの者(モン)じゃい」と因縁をつけ、「千葉の 葛野(かずの)を見れば 百千足(ももちだ)る 家庭(やにわ)も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ」という応神天皇の歌を、〈葛野サイコー!〉と意訳する作家が他にいるだろうか。
 〈神さん〉たちが関西弁で喋(しゃべ)り倒す姿に脳を揺さぶられると同時に、極上のエンターテインメントを読むように、入り組んだ『古事記』のストーリーがするすると頭に入ってくる。
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)の天の戸隠れ、何度も兄たちに殺されては甦(よみがえ)る大国主神(おおくにぬしのかみ)の苦難、須佐之男命(すさのおのみこと)の凶暴さや倭建命(やまとたけるのみこと)のめくるめく冒険、胸に響く「いやよー」と言って滅びゆく者たちの声……。
 古典を枠から解き放つ筆致が生み出す、はち切れんばかりにアグレッシブな神々の「ヤバさ」や暴力的なオーラに惹(ひ)きつけられるうち、「いま」を生きる自分の精神もまた解放されていくように感じた。破天荒な神々の世界が、言葉の力によって生々しくアップデートされていくような痛快さ、と言えばいいだろうか。
 そして、神話はこのようにも描き得るのかという驚きの連続のなか、いつしか胸に生じたのは、「これは『町田康を読む』という一つの体験なのだ」という思いだった。
    ◇
まちだ・こう 1962年生まれ、作家。2000年に「きれぎれ」で芥川賞。著書に『告白』、『宿屋めぐり』など。