昭和、平成、令和と三つの時代にわたって複数の家族が登場する4編は緩やかにつながり、網の目のような人間関係が浮かび上がる。その中で、容姿にまつわる不安がそれぞれの時代の価値観に乗せて描かれる。
1999年刊行の長編「整形美女」では、美容整形をモチーフに美醜という概念そのものを問い直した。だが、当時は「男に見向きもされなかった女性が整形で美人になって復讐(ふくしゅう)する話」を期待され、書きたいことが十分に伝わっていないという思いが残ったという。ルッキズムを疑う感覚が世間である程度定着した今、「ようやく書きやすくなった。今なら私の言い方でわかってもらえるんじゃないか」。
今作では、体のとある部分に関するよくある「悪口」が鍵となる。昭和生まれの大女優はSNSでその言葉を投げかけられることを強く恐れ、21世紀生まれの人気モデルは実際にそう揶揄(やゆ)される。
その悪口が何かは「読んでのお楽しみ」とした上で、姫野さんは説明する。「芸能人や政治家はもちろん、ノーベル賞受賞者や宇宙飛行士でも『あの人××だよね』というひと言ですべてが打ち消されてしまう。でも、白人が作った美の形を、ずっと背負って生きていくのかなと」
4編目の「モデル anti ミリセント・ロバーツ」の舞台は、コンプライアンスや多様性への意識が高まった2034年。着せ替え人形のバービーならぬ「ビービー」のメーカー「アテル社」は伝統的な金髪碧眼(へきがん)のビービーに加え、有色人種やプラスサイズの人形を売り出している。現実をなぞったような描写に「でも、それは罪滅ぼしじゃん」と姫野さん。
物語では、アテル社がなお「××」な少女たちの存在を見落としてきたとして批判にさらされる一方、海外のファッションブランドは新作ショーのモデルに多様な容姿の素人を起用して話題になる。そこで「××」な人代表としてランウェーを歩いた脇役女優の聖は、こう独りごちる。
「ビービーのようなルックスの人を美しいと人が思うのは変わらないと思う。私はビービーのようにきれいではない。自分がそう思っている。それでよいではないか」
姉妹と容姿を比べられる痛みや、芸能一家の子が受ける視線の暴力性も描いた。だが、血縁を必ずしも苦しいものと捉えているわけではない。むしろ、ルッキズムの縛りから人を解放しうるのは家族であり、「生まれた時からの土壌のようなもの」と言う。
自由な気風を持ち、芸能界の先輩として軽やかに聖を導く祖母のジュンチャンは、その象徴的な存在だ。ただ、「あの家族は聖家族ですよ」と姫野さん。物語のラストシーンには、たぐいまれな「聖家族」に頼らずとも人は解放されるという希望も込めている。
性経験のない女性が主人公の「喪失記」(94年)や、現実に起きた強制わいせつ事件をモチーフにした「彼女は頭が悪いから」(18年)など、これまでジェンダーをテーマに多くの作品を書いてきた。「喪失記」を出したころは、男性の批評家や編集者から「30歳を超えて処女なんてどんなブスなのか」と言われたり、「姫野カオルコってやっぱりすごいブスだった?」とうわさされたりした。「私より後の世代はそんなことないと思うけど、その時はそうとしか思われなかった」
時代の変化を感じる一方、姫野さん自身、子供時代から今に至るまで「拷問器具」のようにルッキズムから逃れられないと話す。「自分の顔が大嫌い。本当はいつも御簾(みす)を持ち歩きたい」。執筆中は白人の子役の写真を思い浮かべ、それが自分だと思い込む。「そうでないと自信がなくて書けない」という。
「自分の顔も人の顔も気にしない人として過ごしたかった。私にも、ジュンチャンのような友達がいてくれたらな」(田中ゑれ奈)=朝日新聞2023年6月14日掲載