ある大学生の悩み
――鈴木さんが『学術書を読む』を執筆した経緯を教えてください。そのきっかけの一つは、朝日新聞の記事だったそうですね。
鈴木 「専門外の専門書を読もう」というのは、元々研究者向けのメッセージでした。今、研究の世界で大きな問題の一つが、ちょっと領域が違うだけで対話ができなくなってしまっていることです。
例えば、河川防災は非常に重要な課題ですが、実際に川を整備する河川工学だけでなく、陸水生態学、社会学といった多くの分野の先生が取り組むことになります。そこでは、工学の先生はキロメーターを単位に物事を考える。ところが生態学の先生は、センチメーターで考えます。1メートル違うだけで生態は大きく変わりますからね。つまり、空間の捉え方だけでも10万倍もの差があるわけで、当然、価値観も大きく変わるでしょう。そこをうまく調整しなくてはいけません。
そこで2015年に前作『学術書を書く』を出したときには(研究者に向けて)学術書は自分の専門外の人に向けて書いてほしいと書きました。そのためには当然、専門外で何が行われているか、専門外の人たちは何を考えているかを知らなくてはいけません。だから、その本のあとがきは「学術書を『書く』ことと『読む』こと」というタイトルにして、専門外の本を読んでほしいと書いたんです。
そして京都大学で主に大学院生向けの読書会を3、4年ほど続けました。理系の学生は文系の本、文系の学生は理系の本を読むという風にしました。物理学者の佐藤文隆先生が自身の著作の読書会のチューターを務めることもあるようなぜいたくな会でした。反響がたくさんあったのですが、そのなかに「鈴木の言うことはよくわかるが、専門外の本はどのように選んで読んだらいいのか」という質問があったわけです。
またもう一つ、実は学部学生の間でも、自分の専門外を勉強するのが非常に難しくなっていることがあります。2019年の朝日新聞の「論の芽」という欄に掲載された記事で、ある大学生が大学のカリキュラム上、自分の専門外の分野を学ぶことができないという悩みが紹介されていました。つまり、専門を学ぼうという人間、あるいは専門家にとっても、専門外を知ることはこれほど難しいことになっている。だから専門外の読書の仕方について考えなければならないと思いました。それを伝えることは社会的な意味があると考えるようになったんですね。
「柔らかいガードレール」
――今の時代に生きる私たちが学術書を読むべき理由とは何でしょうか。
鈴木 『学術書を書く』を出した翌年の2016年に、米国大統領選挙でトランプ氏が当選しました。いわゆる社会の二極化が進むなかで、その分断を利用して政治に結びつけるという手法でした。これは米国に限らず、世界中で同じようなことが起こっています。そうしたなか、2018年に米国の2人の政治学者、スティーブン・レビツキーとダニエル・ジブラットが『民主主義の死に方 二極化する政治が招く独裁への道』という本を出しました。この本はとても示唆的でした。
そこでは民主主義には「柔らかいガードレール」が必要だという主張をしています。どういうことかというと、民主主義は民主主義自身を否定する勢力をも認めなくてはならない。それを法律などで排除することはできません。だから何かのきっかけで、民主主義を否定する人びとに引っ張られてしまいそうになることが歴史上も多々あった。ですから、たとえば政党の中にも、システムとして「柔らかいガードレール」があって極端な主張を抑えていたという話がされていて、いままさにそれが必要なのだと提起しています。私はそれを読んだときに「おや?」と思ったんです。これはひょっとすると、学術書というものも「柔らかいガードレール」なのかもしれないと。
例えば、今、中東ではガザを巡って大きな紛争がありますが、非常に対話が難しい状況です。パレスチナの歴史を考えると、2000年あるいは3000年近くさかのぼる必要があります。そしてそれを解読していくと、いわゆる正義はどちらにあるか、なかなか難しくなるわけです。
戦争というのは、大体三つの大きな要因があると言われます。一つ目は、相手に対する恐れ。二つ目は資源や土地をめぐる欲望。三つ目は威信、つまり「自分たちが正しいんだ」という正義のぶつかり合いです。日本の過去を考えても、一つ目、二つ目の側面も大きいのですが、やはり三つ目の威信が戦争を激化させる理由だったわけです。
パレスチナ問題について3000年近くさかのぼって考えるとどちらの威信が正当なものだとは言えなくなる。しかし、そういうことを知ることによって、むしろ威信のぶつかり合いとしての戦争はなくなると思います。そういう意味で学術書を読んで、自分が知らない世界を知ることは、民主主義を守っていく「柔らかいガードレール」になると考えるようになりました。
1日20ページ読む
――学術書はどのように選ぶといいでしょうか。
鈴木 『学術書を読む』では、四つのカテゴリーに分けて、専門外の専門書を選ぶといいという話をしました。遠い専門の本、近い専門の本、古典、現代的なトピックを扱った本ですね。
今日は時間も限られているので、一つ目の自分の専門から遠い本の選び方を紹介できたらと思います。例えば、理系の人にとっての文系の本、文系の人にとっての理系の本です。そうした場合には、その学問がどのように生まれて今に至ったかがわかる「学史」の本が一番いいんです。例えば、科学史や歴史学史といった本ですね。
なぜかというと、例えば科学の専門書だとすると、その理論を説明するためにたくさんの数式が載っていて難しいでしょう。しかし、科学史の本というのは、人々の認識の歴史の変遷を紹介するものなので個々の理論の詳しい証明はされないから数式はあまり無い。一方、文系の専門書、例えば歴史や考古学の本には古い文献資料などが載っていますから、専門外の人が解読することは難しい。しかし学史の本になると、その一つ一つの解説や解読は少なく、なじみがなくても読み進めることができるでしょう。
――分厚い学術書を手に取るのはなかなか勇気がいることのように思います。どのように一歩を踏み出し、読み進めるといいでしょうか。
鈴木 そうですね。学術書のハードルが高いというときには、いろいろな理由があるでしょうが、やっぱりまず分厚くて読むのが大変ですよね。しかし、時間をかけるというのは大事なことです。今は「タイパ」(タイムパフォーマンス:時間対効果)という言葉もありますが、何でもかんでも短い時間でできればいいと考えられています。しかし、やっぱり時間をかけるべきものは、かけないといけません。
例えば、本ではなくテレビの場合は、どうしても受け身になります。読書は自分で主体的に読むわけですが、テレビはただ見て聞いておけばいいわけですから。よくネットテレビで番組を見ることがあるのですが、たまに時間がないときは1.5倍速などにしてしまうのですが、これでは本当に受け身になってしまいますね。自分の頭では何も考えていない。
昨今、電車の中づり広告には「1年間で何冊読むことができるか」といった速読術の本がたくさん紹介されています。しかし、やはり時間をかけることを厭わず、ゆっくり読むことが大事なんです。じっくりと自分で咀嚼していかないと、なかなか身につきません。
ここで私たち京大学術出版会の新人スタッフで営業担当の女性のnoteを紹介したいと思います。彼女は中国人なのですが、川端康成の翻訳小説を読んで日本に関心を持ったのだそうです。大学はデザイン系の美術大学でしたが、独学で日本語検定1級をとって、去年日本に来ました。それで新聞広告で出版会の求人を見てきてくれたという、とても面白い人です。
その彼女がnoteで、私どもが刊行する本を1日20ページ読んで感想を書くという試みをしています。営業ですからどのような本が出ているかを知らなくてはいけない。彼女は「20ページごとに読むことが大事だ」と言うんですね。なぜかと聞いたら、「昔、英語の先生にそのように英語の本を読むといい」と言われたそうでした。それでわからない単語があったら身につけていくと。30ページだと分量が多くて、心が折れてしまう。10ページだと負荷が弱すぎる。20ページぐらいがちょうどいいのだそうです。要するに、外国語の勉強の仕方なんですよね。そのように学術書を1日20ページずつ読みながら、自分で咀嚼できるようになっていく。もし時間がなくて根気が続かないということでしたら、1日20ページをゆっくりと読み進めていくのがいいと思います。
本の内容をしゃべってみる
――自分のペースで読んでいけそうですね。
鈴木 そして一歩を踏み出すのには、いろんなきっかけがあるんですが、本に書かれてあった内容を人にしゃべってみることはいいですね。例えばお子さんでもいいですし、お父さんやお母さんでもいいですが、あとで人にしゃべろうと意識すると、本をよく読めるんですよね。私はよく本を読みながらノートを取るんですが、それは人にしゃべるために書いているんだと思うんです。相手にどういう話をするか考えながら、どこがポイントかをノートに取っています。
そういう意味でも、読書会は学術書を読むきっかけとなるでしょう。みんなで読んで、みんなでしゃべり合うことができる。特に最近はインターネット上で読書会ができるようになりました。実は私どもはこの10月から始めていて、著者に登場していただき、全国各地の方が参加してくださいます。
この前、第1回をやりました。テーマは人類学だったのですが、討論の時間では、視聴していたある大学の医学部附属病院の先生が発言をして盛り上がりました。インターネットの時代には、まさに専門外の著者に直接聞ける機会がありうるのです。これまでなかなか取り組みがたかった学術書の読書がしやすくなるんじゃないかと思います。私ども学術版元も今後努力していきたいところです。
自分は未完成だと考える
トークイベントの最後に鈴木さんが参加者からの質問に答えました。
――年齢を重ねるたびに自分の知りたいことが狭い範疇になっています。興味のある分野についての知識は深くなりますが、人とのコミュニケーションは取りづらくなっていると感じます。この点をどうお考えですか。
鈴木 まるで私自身のことのようです。もう66歳になりましたので、まさに自分の関心の中だけを見てしまいがちなんです。これは先ほどの自分の関心・専門領域に閉じこもって、どんどんたこつぼになっていって、お互い対話できないということと同じですね。
年を取って成熟してくるだけに、なかなか他人と対話しにくくなってしまうのでしょう。でも、私自身よく言うのは、自分はどの分野でも劣等生、あるいは門外漢なんですね。つまりは不完全。自分はよく勉強してきたとか、これがわかっていると考えるのではなく、まだわからないことだらけだなということを意識する。それは読書だけじゃなく、日々を生きる上でもそうですよね。年を重ねて完成されていくほど、むしろ自分は未完成なのだという風に考えるようになれたらいいと思いますし、そうすることで、いろいろな分野とつながることができるのだと思います。
(司会は「じんぶん堂」編集長・高橋秀喜)