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「事務に踊る人々」書評 「注意の規範」が生む豊かな世界

評者: 小澤英実 / 朝⽇新聞掲載:2024年01月06日
事務に踊る人々 著者:阿部 公彦 出版社:講談社 ジャンル:エッセイ

ISBN: 9784065329467
発売⽇: 2023/09/21
サイズ: 19cm/388p

「事務に踊る人々」 [著]阿部公彦

 私たちは「事務帝国」に生きている。事務とはなにか。退屈なルーティン。人間性を奪う必要悪。無駄が多く責任は重い。できれば全力で逃げたい。隙あらば誰かに丸投げしたい――というのが私の実感だ。
 本書はそんな地味な裏方として疎まれてきた事務にスポットを当て、人間の営みを考える社会文化論だ。教育制度や試験、鉄道の旅からエクセルまで、多彩なジャンルを横断する事務的なるものの考察が、ひいては人と人、言葉と人の関係をめぐる哲学や言語行為論の熱い探究につながっていく。だが検証材料の多くを占めるのは文学だ。漱石やディケンズや三島などの文豪や、小川洋子や西村賢太ら現代作家たちが、事務をどう捉え、それに囚(とら)われてきたか。そして働きたくないすべての現代人のバイブルである「究極の事務小説」、メルヴィルの「バートルビー」。事務的なところのかけらもない考察が、これまで語り尽くされてきた作家や作品の新たな相貌(そうぼう)を描き出し、対極に思える文学と事務が、根幹でいかにわかちがたく結びついているかがみえてくる。
 事務がもつ権力、事務が抑圧する私たちの「感情」、事務が私たちに与える落差、事務と死の親和性――読み進めるにつれ、事務に偏愛を覚えたことのない私でも、事務と括(くく)られるものの広汎(こうはん)さと奥行きの深さに気づき魅せられていく(事務になのか、本書になのかは難しいところだ)。
 事務とは注意の規範だと本書はいう。その制度は人を拘束するが、事務の網の目が張り巡らされているからこそ、私たちは安心して冒険し、ときに規範を逸脱することもできる。人間は事務に機械化され、事務は人間のように振る舞おうとするなら、そんな両者の同調と反撥(はんぱつ)の揺れ動きにこそ人間らしさはある。規範を逸脱する人々が事務の「漏れ」をあらわにする文学も、グリッド化された世界で踊り、踊らされてきた人々の愛すべき記録なのだ。
    ◇
あべ・まさひこ 1966年生まれ。東京大教授。著書に『病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉』など。