私に「力」をくれた映画。
2015年に公開された『マッドマックス 怒りのデス・ロード』である。
舞台は核戦争により荒廃しきった未来。大地は砂漠と化し、空気は汚染されて植物も育たない。そんな中、ひとり孤独に放浪をするマックス・ロカタンスキーは「砦」の戦士たちに襲われて愛車も何もかも奪われ、拘束されたうえ、瀕死の戦士に血を提供する「輸血袋」にされてしまう。この砦の支配者はイモータン・ジョー。貴重な水源を独占し、恐怖と暴力によって人々を従える独裁者だ。
マックスが捕らわれている一方、イモータンの腹心の部下である女戦士・フュリオサは、とある計画を実行しようとしていた。イモータンが最も大切にしている妻たちを連れて「緑の地」なる理想郷へと逃亡することである。
フュリオサの裏切りに激怒し、自ら先頭に立って愛車を駆るイモータン。マックスも戦士の輸血袋として図らずも追跡劇に身を投じる羽目になるのだが……。
初めて映画を観終わった時の高揚感は、今でも忘れられない。
ただただ、すげえ、の一言だった。
CGを使わず撮られたカーアクション、激しい肉弾戦、人間模様の数々――まばたき禁止とはこの映画のためにある言葉だ。一方、ユーモアもふんだんに散りばめられている。
たとえばイモータン率いる軍隊の戦意高揚専用車「ドラム・ワゴン」には後ろに太鼓隊、前方にバンドリーダーが鎮座して火炎放射器つきのギターをかき鳴らしており、戦いには一切参加しない。思わず「こいつら、要るんか……?」とツッコミを入れたくなること必至だが、ツッコんだら負けである。他にも棒飛び隊なる男たちが戦闘車のしなる棒にしがみついてびよーんびよーんと揺れていたり、スーツの穴からのぞく乳首を終始いじっている変態が登場したりと、まさしく「マッド」な世界観。輸血袋として車の先端にくくりつけられたマックスが身動きの取れないまま戦火を間近に浴びせられ、ぶんぶん振り回されるシーンなんかは不憫だが爆笑ものだ。
こうした濃すぎるキャラクターたちが叫び、爆走し、命の輝きを放ちまくる。
この「合法でハイになれる」感覚にハマった私は5回劇場に足を運び、うち1回は爆音上映を観るためだけに金沢から東京は八王子の劇場まで行った。DVDも購入して数え切れないほど繰り返し観た。
当時交際していた恋人(念のため断っておくと私の性別は女、相手は男である)を引きずって劇場に行った時なんかは、上映終了後、ファミレスにてやれやれといった顔で「君はもうちょっとこう、落ち着いた映画を観なさいよ……」と諭され、ハイになっているがゆえに「うるせえ!!!」とキレてそのまま彼とは別れた。後悔はしていない。
この映画を劇場で見た当時、私は死を考えるほど精神的に疲弊しきっていた。
クソみたいなブラック企業で必死こいて働き、クソみたいな上司のご機嫌を伺い、クソみたいな人間トラブルに巻き込まれてうつ病と診断された挙句、「休職するくらいならその席を空けろ」というクソみたいな言葉でクビを宣告された。だが、怒りはなかった。怒る気力もないくらい、心が瀕死の状態にあった。
私って、何のために生きてんのかな……。そんな時に出会ったのが、この映画だ。
イモータンは妻たちを奪ったフュリオサに怒り、自らも元妻であるフュリオサはイモータンに怒り、そして第三者であるマックスは、彼らの激情を目の当たりにしつつ、家族を守れなかった過去の己に怒っている。文明も秩序も失われた世界にいるのは「野生の人間」だけだ。
彼らはむき出しの感情に従って怒り、戦う。
その姿は私に、「もっと怒れ」と言っているようであった。怒りという感情は、時として人に絶大な生きる力を与えてくれる。
ここまで一本の映画に惹きつけられた理由は他にもある。
一つはマックスとフュリオサの関係性。二人は序盤で本気の殺しあいを演じるのだが、成り行きで共闘せざるを得なくなる。そこで互いの強さを瞬時に認め、ついさっき殺しあっていたのが嘘かのような阿吽の呼吸を見せるのだ。過酷な逃避行の中でフュリオサはマックスを信頼し、マックスもフュリオサに無条件で協力するようになっていく。ほとんど言葉を交わさない(何ならマックスはほぼ喋らないし終盤まで名乗りもしない)のに、互いの体と心を案じる様子は、さながら戦友のよう。男と女がここまで心を通いあわせたらロマンスになるのが常ではあるが、この映画ではそうはならない。それもまたいい。
何より、私を最も驚嘆させたのは、中盤での出来事であった。
目的地である「緑の地」が実はすでに消滅していたと知ったフュリオサは絶望して半ばヤケを起こし、存在するかどうかも判らない別の理想郷を探しに行こうとするのだが、マックスはそれを止めてこう提案する。
戻ればいいじゃん、と。
は?! と思った。まさかのUターン?! あれだけ死線をくぐり抜けてここまで来たのに、結局戻るとな???
しかしよくよく考えれば元いた砦はそれこそ理想郷と呼ぶにふさわしく、水も緑も潤沢だ。そもそもなぜ、自分たちが逃げなければならないのだ? 砦という理想郷がありながら、なぜ一人の独裁者に屈しなければいけないのだ――かくしてフュリオサはマックスの提案に乗り、砦に戻るためイモータン・ジョーと再び対決することを選ぶのだった。
ある意味で非常に画期的な展開であり、私自身、目が覚めるような思いがした。
人はとかく自分にふさわしい新天地を探し求めようとする。新しい何かをがむしゃらに探すのも、なるほどいいだろう。しかしながら、今の場所で踏ん張ることも、立派な選択肢の一つではなかろうか。デス・ロードは自分自身を取り戻すための旅路だった。
今振り返って思うに、当時、私は死という新天地に救いを求めていたのかもしれない。
だがこの映画によって「怒り」という大事な感情を思い出し、「戦う」という意志を与えられた。その情動のままに小説の新人賞に応募し、作家になった。
作家になっても迷うことはある。人の成功を見て嫉妬し、自己嫌悪に陥る時もある。膝からくずおれるくらいショックなことも起きる。そんな時はこの映画を観るのだ。
生きろ。戦え。今いる場所で、今ある武器で――『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、今も私に踏ん張る力を与えてくれる。