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伊藤亜和さん「存在の耐えられない愛おしさ」インタビュー 甘え、傷つき、でも愛おしむ「優しさの本質」

伊藤亜和さん=篠塚ようこ撮影

始まりは「おもろいエピソードあるで」

─── 新人エッセイストながら、ジェーン・スーさんをはじめとした著名人から太鼓判を押されています。現在の立ち位置をどう感じますか?

 素直に嬉しいですね。でも正直「やった!」みたいな高揚感ではないんです。4年前くらいから気が向いたときだけ、短い日記みたいなものをnoteで公開していただけの私の文章が書店に置いてあるんだと思うと、なんだか恥ずかしくて。平積みになっている本がちょっと減っていると「誰か買ってくれたんだな」と静かに喜んでいるのですが、著者だとバレたくないので立ち止まらずに通り過ぎて、そのまま書店を出ています(笑) 。

 私の文章が初めて多くの人に読んでもらえたのは、noteに投稿した父親と私の関係についての記事でした。今でもなぜ、あんなにも多くの人からの共感の声や反響があったのか分かりません。父や家族について書こうと思った きっかけも「私の人生を知ってほしい」とか「同じ境遇に苦しむ人たちに何か届けたい」みたいなものではなくて、単純に「おもろいエピソードあるで」という軽い気持ちでした。

 「100%私の文章の力だ」とは到底思っていませんが、文章の客観性や俯瞰性を評価してくださっている声が多い事実は、大切に受け取りたいですね。小さい頃から「自分が他人にどう見えるか」を意識し続けてきたので、そんな性格が文章に反映されていると思います。

「愛おしさ」の因数分解

─── 本書は家族や友人との人間模様や、それを通して変化する伊藤さんの心情が綴られたエッセイ集ですが、終盤での「愛おしさ」という言葉の登場により、「これは単にエッセイを集めたものではなくて、『愛おしさ』についての一つの物語だったんだ」と感じました。タイトルにもなってる「存在の耐えられない愛おしさ」とは具体的に何でしょうか?

 実はすべて書き上げてから、最後の最後で決めたんです。それまでに書いてきたエッセイを1冊の本としてとらえてみると、線としてつなげてくれるタイトルはこれだなと思いました。

 チェコスロバキアの作家、ミラン・クンデラが書いた『存在の耐えられない軽さ』という本があって、そこから「必然的な愛おしさ」という意味を込めて拝借しました。恋愛小説ということにはなっているのですが、時代の酷な風向きも相まって、主人公は「本当にこうでなければいけなかったのか」「なぜそうなる運命だったのか」と人生を問い続けます。その本を読んで私は「悲しい出来事の中にも幸福な記憶や、心に留めておくべき体験があるんだな」と考えたんだと思います。

 つまり、悲劇を悲劇で終わらせないっていう決意を、無意識にも私は書きたかったんじゃないかな。愛おしくても、傷つけ合って離れなければいけないことがある。特に大人になってからそう思うことが多くて、もの寂しさからこのタイトルを選んだのかもしれません。

─── 伊藤さんの文章は冷静なのに冷たくないというか、俯瞰者でありつつも、人間関係の当事者として周囲との関係を大切にしているように感じました。

 皮肉っぽいこともいっぱい書いてありますよね(笑)。私の良くないところなんですけど、心を開けば開くほどその人を雑に扱ってしまう癖があって、セーフスペースへの愛情表現が甘えになっていることが文章に出ているのかもしれません。

 特に親友の山口への扱いは、本当に酷いなって自分でも思います。もちろん仲良くなっても傷つきやすそうな子はよく考えて接してますが、勝手に人の家に土足で入ってくるようなやつがいてくれるのは、私みたいな人間にはある意味ありがたいんです。そのおかげで私もそのスタンスで気負わずにいられるし、山口もそういう私の本質を汲んでたしなめてくれる。だから「ポンコツ」と呼んだり行動をいじったりはしても、人格は否定しないようにしようって思っています。

「本当の自分」は選択で生まれる

─── 本の中で、伊藤さんの弾く三味線の音色を、先生が「清濁がある」と評したと書かれていました。清らかであり濁ってもいるとは、どのような状態だと思いますか?

 大前提として、私は何が正しくて何が間違ってるという判断が苦手なんです。どんな人であれ、その人の中にある愛おしい部分や自分が「好きだな」と思う部分だけを掬い取るのが得意で、だからこそ、多くの人が「こいつの近くにいたら危ないな」と警戒するような人を含め、結構やばい登場人物もこの本には一貫性なく出てくるんだと思います。

 加えて、私は好奇心がすごく強い人間で、いわゆる「フッ軽」(フットワークが軽い性格)でもあります。色々な人に出会って色々な関係を築く中で、自然と「清らか」とは程遠いであろうこと、社会的には「濁り」であるかもしれないことも見てきました。

 でも、そういう背景があった上で清くあろうとする、「濁りを拒否する」という選択ができる心構えが「清濁」なんじゃないかなと思います。

─── 清濁といえば、20代の人たちと話していると「周囲の思っている優しい自分と、本当の自分の間にギャップがある」という葛藤をよく聞きくのですが、伊藤さんは「優しさ」の本質はどんなものだと思いますか?

 「本当の自分」という存在を思い込みすぎている人もいるんじゃないかなと思います。人ってなぜか自分の悪い部分や時折出てくる醜い分ばかりを「本当の自分」だと認識して自虐的に振る舞う傾向にありますよね。逆に何か善い行いをしても「これが本当の自分だ」と言う人はほとんどいないように思います。

 でも、その人だって周囲の人たちと楽しく話したいと思っていたり大切に思っていたりするからこそ、互いに関係性を築いていけるような性格でいる選択をしているわけじゃないですか。内側にある気持ちやその人が思う「本当の自分」がどんなものであれ、「善い行いを選択しよう」と決めた自分も、本当の自分であると認めてあげていいと私は思います。醜い部分ばかりに光を当てて「自分はダメなんだ」と悲劇のヒロインになることは、語弊を恐れずにいうならば楽な選択肢でもあるかもしれません。

 醜い感情が湧いたとしても心の中で押しとどめる強さ、自分の中にあるものから選ぶ強さ、そして他人にぶつけない強さ。それが優しさの本質なんじゃないかな。最近の社会は自分をさらけ出すことが一概に「善い」とされる傾向にありますが、ぐっと堪えて出さない、選んで出すっていうのもかっこいいと思います。

素敵なんかじゃないけど、愛してる

─── 「『愛してる』と誰かに伝えることで、相手の世界を壊してしまうのではないか」とも書かれていますね。

 本にもいくつか書いた通り、願ったことが叶わないことが多い人生だったので、「愛してほしい」とか「愛してる」という気持ちを表明すると、その人の存在が見えない力によって奪われてしまうような気がするんです。言葉にすると、神様か誰かに見つかってそれを破壊されちゃうみたいな気持ちが、心のどこかにあるんだと思います。

 でも、自分がやりたいことを叶えている人って、それを口に出して、どんどん人を巻き込んでいける人だったりもする。だから私の願いが叶わなかったのは、 どこかで「別にどっちでもいいです」みたいな態度を取っていたからなんだなと最近は思いますね。ちょっと欲しそうな顔をしてたら、周りがどうにかしてくれるって信じていたんだと思います。

 実は執筆をする中で心境に変化があって、書き下ろしの最後の方では、勇気を出して「愛してる」って言ってみようと思い始めている自分についても書いています。

─── 終盤の書き下ろしでは、登場した人たちに向けて「元気でいてね」とも綴っています。本書の裏テーマには博愛のようなものがあるようにも感じたのですが、いかがでしょう?

 博愛なんて素敵なものじゃないですよ。確かに「元気でいてね」とは心から思っていますが、執念というか「私を忘れるなよ」みたいな気持ちもあるんです。「お前がどれだけ私のことを記憶から消し去ろうとしても、お前がどこにいても、私が視界にちらつくように、私は今こうしているんだよ!」みたいな気持ちで書き上げた部分もあると思います。半分は冗談ですけどね。半分は(笑)。

 何より、私は何かを振り返るとき、なぜか楽しかったことばかりを思い出すような性格なんです。だから、出会った人たちと過ごす中で不意に出た言葉や、正直に意思を見せてくれたときの表情なんかを、宝石みたいに必死ですくって磨いて、今も大事に一つひとつ取っておいているんだと思います。そんな大好きな瞬間の集合体がこの本なんです。

 それに、その人と関わってたことを否定することは、 その時の自分もろとも否定するみたいで、悲しいじゃないですか。自分を下げるようなことも書いていますが、結局私は自分が大好きなんだと思います。

─── 最後に、どんな人に『存在の耐えられない愛おしさ』を読んでほしいですか?

 表紙の写真やタイトルからしても、例えば中年の男性が手に取ることは少ないような本だと思います。でも実際にページを開いてみるとそうでもなくて、「スリルとサスペンス、大変なことがいっぱいだけど、人生なんだかんだおもろいな。頑張ろうぜ」みたいな感じの要素も詰まっているので、ぜひいろいろな層の方に読んでいただきたいですね。エッセイに馴染みのない人でも退屈しない本にできたかなと思います。