歌うとき、思うように声が出ない。ロックバンド「クリープハイプ」のボーカル・ギターとして活躍しながら、10年近く悩み続けている。
尾崎世界観さんの3年半ぶりの小説「転の声」(文芸春秋)は、自身と同じく歌声が出にくいことに苦しむミュージシャンが主人公だ。大きなステージに立っても、いちばんの商売道具である声が出ない。ままならない思いから、バンドのライブチケットが高額で転売される仕組みにすがりつこうとする。
ステージ上で〈漏れた息だけがマイクに当たって、出したかった声の形に声帯が歪む〉。レコーディングスタジオで〈声は筋肉に飲み込まれて詰まる〉。
歌唱時の描写は、自身の体感が元だ。書くのはつらかった。同時に、苦しい経験を良い文章にして伝えようとする自分の姿は「滑稽で、おもしろかった。書くことで、どうにかして歌えない自分を肯定したかった」。
小説を書くこと自体が、歌えなくなった自分を理解し、納得し、諦めるための行為だった。2016年、初めての小説「祐介」を出した。執筆は、声の調子がいちばんひどい時期と重なった。「音楽は唯一得意なことなのに、それもうまくいかなくなって。思いを小説にぶつけることで、どうにか音楽も続けることができた」
今作では、ミュージシャンが日々さらされるネットの声がリアルに描かれる。ライブの感想。チケットを高値で転売したり、どうにかして手に入れようとしたりするファン同士のやりとり。尾崎さん自身が頻繁にしているエゴサーチで目にする投稿が参考になっている。「どこにも残らないと思って書かれている言葉って、力が入っていないからおもしろくて」
転売を悪だと断罪することも、ネット上の書き込みを批判することもない。音楽への諦め、冷めた視線が描かれるほどに、音楽への愛や執念が伝わってくる。ごちゃ混ぜの心情は、尾崎さんが歌でも、小説でも表現していることだ。「怒ってるけど悲しくて、バカバカしくて笑える。そういう何ともいえない気持ちを書けるときがうれしい。感情になる前の、気分を書きたいといつも思っています」
前作の小説「母影(おもかげ)」に続き、2度目の芥川賞候補になったが、受賞を逃した。「賞を取れなかったときのあっけなさと悔しい気持ちも、いつか書いてみたい」
音楽から逃げるように始めた執筆が、音楽を続けるための表現になった。「自分が作った曲なのに、うまく歌えないことが恥ずかしくて、怒っていて、悩んでいた」。でも、書けなくなる代わりに歌えるようにすると言われたとしても、「いまのままでいいと言う」。
この作品を書いて、そう思えた。(田中瞳子)=朝日新聞2024年9月11日掲載