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疲れたのではないかね? 津村記久子

 大暴れな夏だった。猛暑の基盤の上に、次々と重なるパリ五輪、西日本では南海トラフ地震の注意報、自転車並の速度で動く挙動の読めない台風、米不足。自分自身も他の人がやったことの補塡(ほてん)で一か月以上右往左往していたのだが、暑いからあんなことがあったのかもしれない。

 もう、一年から七月と八月を取り除いてもらえないかとすら頭に過(よ)ぎる。来年の七夕の短冊を書く機会があったら、〈七月と八月がなくなりますように〉と下手な字で書く。七夕ごとなくなるけれども気付かないふりをする。でもそうなると農作物などに影響が出るんだろう。それでももう、七月さんと八月さんには辞めてほしい、辞められないならせめてもう少しわきまえてほしい、と涙ながらに訴えたくなる。

 七月と八月は必ずある、そして何もできない、という無力感の中でやっていたことは、「ノートを書くこと」だった。七月にあまりにつらかったので、八月用に愚痴ノートを買ったのだ。ノートに愚痴は年中書いているが、ある月に対する対策として買うのは初めてだ。もはや小学生だった頃の夏休みの絵日記と同じカテゴリのものだと思う。読み返すと、日記の内容はいつにもまして暗い。「生きる気力が低下した」「〈諦めて楽になる〉のではなく〈楽になることを諦める〉」「今は約束を果たすために生きているだけだ」など、なかなか重い言葉が並ぶ。これを学校の先生に提出したら心配されるだろう。もし絵日記なら「今は約束を果たすために生きているだけだ」はどんな絵を描くんだ。

 さんざんな夏だったので、良かったことも思い出すようにしている。この夏わたしは、米がないせいでじゃがいも料理のレパートリーが増え、空になったクッキー缶には新たに買ってきたクッキーを詰めるとけっこう満足する、ということを学んだ。夏が終わりそうなのもいい。もう疲れたでしょう? と、自分や他の人ではなく、夏そのものに言葉をかけたい。=朝日新聞2024年9月18日掲載