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花見と普通 津村記久子

 今年も花見に行った。仕事の合間に近所が三箇所と、休みの日に友人の地元が一箇所で、どこも地元の人が来るような所だ。毎年行くようになった友人の地元がすごくいい場所で、ある時から、焦って休みを費やして足を伸ばして有名な場所に桜を見に行くということもやらなくなった。いいものをたくさん見てきたという自信がついてきたのだと思う。

 花見には、二十代の後半から行き始めた。ある芸能人の方が「毎日花見に行っている」と言っていたのに影響されて、会社の近くにある川沿いの名所に通い始めた。わたしは「映画を観(み)に行きたい」という理由で、職場で開催された金曜の夜の花見をしながらのバーベキューを欠席する人間だったのだが、明るいうちに桜の木をうろうろ見て回ることには向いていた。一人で、または友人とぶらぶらして花見をしながら、人間を満喫してるなあと思う。二十代の中盤ぐらいまではなかった感覚だ。風呂に入ると楽になる、とか、お茶を飲むと落ち着く、など、年を取ってよかったと思うことはわりとあるのだが、花見が楽しめるようになることもそのうちの一つだ。

 すごく若かった頃は、「使命を受けた唯一の個性を持つ自分」のような妄想に囚(とら)われていた。そんな自分は、普通の人のように花見なんて楽しむわけがないし、この高尚な悩みに風呂など意味がないし、お茶もくだらない。特別な自分は、そのうち何かに召し上げてもらえる。

 当然そんなイベントは起こらず、わたしは就職し、パワハラを体験し、「召し上げられない」ことを思い知った後、再就職して、からがら作家になった。それから花見を楽しみ、風呂に入って回復し、お茶で落ち着く普通の人になった。

 花見をしていると、妄想なんかなくても生きていけると思う。自分の妄想などより優れた自然の摂理に圧倒されながら、これに感心できるようになってよかったと感じ入る。召し上げられなくても自分は自力でまた桜を見る。=朝日新聞2025年4月16日掲載