年を取って実感してきた外来語がある。それは「アタック」だ。今頻繁に使う人はいるのだろうか? いちばん実感が持てるのは、「山頂にアタックする」のアタックだ。
四十代後半にして、仕事も家事も、もはや自然にできる動作などほとんどないということに気が付いた。もしかしたら、自分が何も奮い起こさずにできる動作は「トイレに行く」「寝ころぶ」「携帯を見る」「お茶を淹(い)れる」以外何もないかもしれない。それ以外はあらゆることがアタックだ。トイレ掃除にアタックする。洗濯にアタックする。読書にアタックする。買い物にアタックする。ゴミ出しにアタックする。まるで人生が難しくなってきたことの象徴のようだアタック。
中でも仕事を始めることは困難なアタックだ。椅子に座る。常にごちゃごちゃしている机を少し片付ける。タイプライターを開けてキッチンタイマーをかける。実はこの中で一番難しいアタックは「椅子に座ること」だ。
「山頂にアタックする」感覚で日常の様々なことにアタックしている、と言うと大変そうだが、自分としてはわりとやる気が出る言い回しだった。ちなみに、わたしは郵便物の封筒の処理(封筒から宛名を切り離し、シュレッダーにかけて普通ゴミに捨て、封筒は資源ゴミとしてまとめる)がものすごく苦手でしょっちゅう溜(た)め込んでいたのだが、もうこれはそういうゲームなのだ、と思うことにして、専用のコールを作ってそれを口ずさみながらだとあまり溜めないようになった。
人生にアタックし続けて四十七年、自分にはあらゆることが難しい、と認め、とにかく自分をのせるという方向に動くと少し楽になるということだけは発見した。そういえば幼稚園の頃の片付けの時間は、先生がオルガンで〈おかたづけのテーマ〉を弾いて、歌いながら片付けていた。あれはとても理にかなった習慣だったのだ、と四十三年後に気が付いた。興味深い。=朝日新聞2025年5月14日掲載
