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「寝煙草の危険」「救出の距離」……スパニッシュ・ホラーの不穏な魅力は 翻訳家・宮﨑真紀さんに聞く

宮﨑真紀さん=撮影・松嶋愛

女性作家が告発するホラーな社会状況

――宮﨑さんは2022年刊のエルビラ・ナバロ『兎の島』を皮切りに、スペイン語圏のホラー小説を相次いで翻訳紹介されていますね。スパニッシュ・ホラーを紹介しようと思った理由は。

 スペインで刊行された本を日本向けに紹介する〈ニュー・スパニッシュ・ブックス〉という、駐日スペイン大使館のサポートを受けたプロジェクトがありまして。ナバロの『兎の島』もその中でおすすめされていた一冊だったんです。その下読みのレポートが国書刊行会の編集者さんの目に留まった、というのがそもそもの経緯です。その際に「今スペイン語圏に面白い女性作家がたくさんいるから、せっかくならまとめて紹介しよう」ということになったんですよ。当初は家族小説とかホラー以外の作品も候補にあげていたんですが、担当編集の方がホラー好きだったこともあり(笑)、スペイン語圏のホラーや幻想文学を〈スパニッシュ・ホラー文芸〉と称して紹介することになりました。

――スペイン語圏では実際ホラーが盛り上がっているんでしょうか。

 日本の読者が思い浮かべるようなホラーが数多く刊行されているかというと、必ずしもそうではないようです。特に南米では日本や英米のようにエンターテイメントの分野が発達しているわけではありませんから。ただ日常にある恐怖や不安、自分たちを取り巻くホラー的な状況をテーマにした、若い女性作家の活躍がめざましいのは事実。そうした潮流が英語圏でもスパニッシュ・ホラーと呼ばれたりしているんです。

――なぜスペイン語圏の女性作家は、不安や恐怖をよく描くのでしょうか。

 スペイン語圏は父権主義的で、マチスモと呼ばれる男らしさが重要視される社会です。1960~70年代の世界的なラテンアメリカ文学ブームで取り上げられたのも、白人の男性作家が中心でした。女性は周縁に押しやられて、なかなか男性中心の社会に参加することができなかった。それが近年のMeToo運動に代表されるフェミニズムの高まりを受けて、自分たちも声をあげていいんだという風潮に変わってきたんです。その結果、アルゼンチンやチリ、エクアドルなどの南米各地で、女性作家たちが自分の置かれたホラーな状況を発信し始めている、ということだと思います。

――なるほど、自分たちの置かれた状況を描くと、結果的にホラーに近づくということですね。

 そうですね。しかし『寝煙草の危険』のマリアーナ・エンリケスに関しては、自覚的にホラーを書いています。彼女はスティーヴン・キングなどの英米圏のホラー小説や、1980年代のホラー映画の洗礼を受けた作家で、自分はラテンアメリカのホラーを書くんだと宣言している。エンリケスのようにホラージャンルに自覚的な作家は、スペイン語圏では少数派でしょうね。

――スパニッシュ・ホラーの作家たちは、国際的にも高く評価されているそうですね。

 国際的は評価については、アメリカのミーガン・マクダウェルなどスペイン語圏の新しい文学を英語圏に紹介している翻訳家の存在が大きいです。やっぱり英語に翻訳されないと国際的な評価は望めないので。ナバロが全米図書賞のロングリストに選ばれたり、エンリケスがブッカー賞の最終候補になったりという動きは、意欲ある翻訳家たちの仕事の賜でもあるんですね。

――エンリケス『寝煙草の危険』に顕著ですが、スパニッシュ・ホラーには貧困や差別、ドラッグなど社会問題を取り入れた作品が多いようにも思います。

 それとアルゼンチンに関して言うなら、70年代から80年代まで軍事独裁政権が続いていたことの影響は無視できません。突然隣人がいなくなったり、生活していたら拉致されたりという恐怖を、ある年齢以上の人は経験している。独裁政権が恐ろしいのは、昨日まで親しくしていた隣人が敵になることなんです。いつ密告されるか分からないという社会の恐怖は、深い心の傷となって残っていて、多くの作家たちはそれについて書かずにはいられない。

――スペイン語圏には独自の死生観や宗教観がありそうですね。

 基本的にはカトリックの文化圏にあるのですが、南米諸国はそこに先住民の文化が混ざり合ってくる。これは以前訳した作品に出てきたエピソードですが、ある道路で交通事故に遭った人が、聖人として祀られるんですね。旧来のカトリックとは異なる価値観で、すごく面白いと思います。地方に行くとヒーラー、呪術医のような人がいますし、お年寄りによって語り継がれた神話や伝承が日常生活の中にも入り込んでいる。こうした独自の宗教文化は、文学作品にも色濃く反映されています。

サマンタ・シュウェブリン『救出の距離』(国書刊行会)

独特の「居心地悪さ」が魅力のシュウェブリン

――国書刊行会の〈スパニッシュ・ホラー文芸〉第3弾として、アルゼンチン作家サマンタ・シュウェブリンの『救出の距離』が刊行されました。シュウェブリンとはどんな作家なのでしょうか。

 どちらかと言うと純文学寄りの作家で、ボルヘスやコルタサルに代表されるアルゼンチンの幻想文学、いわゆるラプラタ文学の系譜を継ぐ人というのが一般的な評価でしょうか。ベルリン在住のせいかコスモポリタンな作風でもあって、エンリケスとかフェルナンダ・メルチョールのように生まれた土地に根ざした作品を書いているというわけではない。海外での評価が高いのはそのせいかもしれません。

――シュウェブリン作品の魅力や特徴はどんなところでしょうか。

 特徴としては独特の「居心地の悪さ」があげられると思います。正体のはっきりしない不安、足下がぐらつくような感覚がくり返し描かれている。それをホラーと受け取る人もいるでしょうし、幻想文学としても評価できますが、シュウェブリン本人の意識ではあくまで現実を描いたもの。現実とは奇妙な偶然の連なりであり、彼女の小説はその中に流れる時間を切り取っているんです。

――『救出の距離』はかなり不思議な読み心地の作品ですね。アマンダという女性がベッドに横たわっていて、その傍らに9歳の少年ダビが佇んでいる。どんな状況なのか分からないまま、二人の対話だけで物語が進んでいきます。

 中心にあるのはある超自然現象なのですが、それがどこまで事実なのか、彼女の妄想なのかが分からない。時間も空間も混乱していて、突然話が過去に飛んだり、視点が屋外に移ったりする。その混沌とした語りがひとつの読みどころですね。それが後半「そういうことだったのか」と分かってきて、ものすごいラストになだれ込んでいきます。

――ベッドのアマンダに語りかけるダビが、またなんとも謎めいた少年です。

 すべてを見通しているような怖さがありますよね。中身が誰かと入れ替わっているのか、超越的な視点を持っているのか分かりませんが、9歳にしてはかなり大人びた印象を受ける。こうしたダビのもつ底知れない存在感は、日本語でもうまく伝わるように工夫して訳しました。

――ダビは幼い頃死にかけたところを、〈緑の家〉に住むヒーラーの女性によって救われています。

 さっきも言ったようにアルゼンチンは父権社会で、女性たちの声は社会に聞き入れられない。そんな時女性たちが頼りにするのは、ヒーラーとか呪術医と呼ばれる存在なんです。いわば女性の駆け込み寺ですね。この作品の舞台はブエノスアイレスから車で数時間かかる田舎なので、まだそういう土着的な文化が色濃く残っているんです。

宮﨑真紀さん=撮影・松嶋愛

母と子の物語が浮き彫りにする、父の不在

――タイトルの“救出の距離”とは、アマンダが娘のニナを助けるために駆けつける距離のこと。母と子の関係が物語の大きなテーマになっています。

 アマンダとニナは見えないへその緒のようなもので繋がっていて、不安が募るとその糸は短くなり、安心すると伸びる。そういうイメージが物語全体を覆っています。同じような切迫した感覚は、ダビの母親であるカルラも抱いている。都会から来たアマンダと田舎で暮らすカルラは反発しあっている面もありますが、わが子を案じる母親という立場において連帯しているんです。裏を返すとこの物語は、父の不在をテーマにしているともいえる。結局のところ、絆を断ち切ってしまうのは、家族に関心のない父親なんですね。

――一連の事件には農薬などによる環境破壊の問題も、大きな影を落としています。ある意味では社会派ホラーとも呼べますね。

 ええ。あとがきにも書きましたが、アルゼンチンは世界3位の大豆輸出国で、遺伝子組み替え大豆を大規模農場で栽培しています。その際に使われていたのがモンサント社が販売していたラウンドアップやグリホサートといった除草剤や農薬で、その影響で先天異常を持つ子どもが生まれたり、癌や甲状腺異常などの症状を訴える人が激増した。シュウェブリンは『モンサントの不自然な食べもの』というドキュメンタリー映画でこの事実を知り、いつか小説に書かなければと考えていたそうです。ちなみに映画といえば『救出の距離』も映画化されていて、Netflixで観ることができますが(邦題『悪夢は苛む』)、そこにもやはり除草剤や農薬で先天的な異常を負ってしまった子どもが登場しています。

――国書刊行会での〈スパニッシュ・ホラー文芸〉プロジェクト、今後の展開は?

 エクアドル出身の若手女性作家、モニカ・オヘーダの『飛ぶものたち(仮)』を紹介する予定です。〈アンデス・ゴシック〉と評されている作品で、現代のルッキズムやフェミニズムなどの問題を幻想的に描いた異色の作品集。2025年にはお届けできるのではないでしょうか。今後もできればスパニッシュ・ホラーの紹介を続けていきたいと思っています。

――期待しています。では最後にあらためて、宮﨑さんにとってスパニッシュ・ホラーの魅力とは何でしょうか。

 間口が広く、多くの人に共感できるというところですね。スペイン語圏の女性たちが置かれているホラーな状況、日々の生活で感じている不安や恐怖は、日本で暮らしているわたしたちにも、共感できるものだと思うんです。もちろん宗教観や文化など異なる部分もありますからその違いを楽しみながら、女性作家たちの叫びに耳を傾けてみてください。