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田嶋陽子さん「わたしリセット」インタビュー、フェミニストが贈る「『わが・まま』に生きましょう」

田嶋陽子さん=川しまゆうこ撮影

神様よりも男よりも、母が怖かった

――『わたしリセット』はどの世代にも届く「田嶋陽子の入門書」だと感じました。「フェミニストとしての田嶋陽子」しか知らない人にとっては、研究者としての出発点が英文学だったと知るのは意外かもしれません。

 私が高校生の頃、今から70年近く前になりますが、私はすでに英語の弁論大会で、イプセンの『人形の家』のヒロイン、ノラを扱っていました。その頃小説も書いていて、校内誌に発表した短編を社会科の先生が授業で取り上げてくれました。医者になりたい姉とかわいいお嫁さんになりたい妹との葛藤をえがいたものです。

 私は医学部に行きたくて共学の進学校を目指していたんだけど、親に反対されて女子校に進学させられたのね。だからふてくされて、毎日のように図書館にこもって世界文学全集を読み漁っていた。その高校2年生の頃だけど、なぜだかヒロインが最後に死ななきゃいけない作品が多いことに気づいた。今思えば、そのときの発見が後に1冊の本『ヒロインは、なぜ殺されるのか』(1991年)に結びついたのだと思う。この本は映画のヒロインが最後には死んでしまうことに、男社会における女性抑圧の構造を読み取ったものですが、その発想の根底はこの高校生の時の読書体験にあります。

 大学は津田梅子さんや神近市子さん、藤田たきさんへの憧れから、津田塾大学の学芸学部(英文科)を選びました。当時はまだ大学のカリキュラムに女性学やフェミニズムという言葉はありませんでした。ましてや、そもそも、女性の人権なんて世間の大多数からはどうでもいいと思われていた時代です。

 卒業後、津田塾大学の大学院で英文学を専攻し、イギリス留学から帰国して法政大学の専任講師になったのが1972年、31歳の時です。1979年には「日本女性学会」が発足しましたが、文学でフェミニズムを主張する人なんて周囲にはいませんでした。女性学の研究は社会学の分野が主流だったし、文学自体が他の学問と比べて軽んじられている空気もありました。

 それでも、私は英国小説をフェミニズムの視点から捉える論文を英文学会誌や仲間との同人誌に発表していきました。法政大学では女性学の視点で英文学作品を分析する授業も試みました。自分が女であるために窮屈で苦しい思いをしていたから、なんで女であることがこんなに苦しいのか。その理由を、その苦しみを分析し、考え、論文1本、1本に書きまとめることによって、自分を解放していったような気がします。

 それらの論文は、1990年、49歳で「笑っていいとも!」、そして50歳で「ビートたけしのTVタックル」と立て続けに出始めたころの3年間くらいに、加筆・修正して『ヒロインは、なぜ殺されるのか』(1991年)、『愛という名の支配』(1992年)、「もう女はやってられない』(1993年)などの書籍として出版されました。

 ――90年代から“強いフェミニスト”の先駆的アイコンだった田嶋さんが、母親の呪縛から解放されたのが46歳というのも驚きでした。

 だって神様よりも男よりも、私にとっては母が一番怖かったから。小さいときからずっと私を抑圧してきた存在だから、もう恐怖が体の奥底に染み込んでいたんです。

 母は病気で長いこと寝たきりでしたが、娘である私の一挙手一投足を監視し、口答えでもしようものなら容赦なく叩いてくる人でした。「勉強して自立しなさい」と言いながら、「女らしくしないと嫁の貰い手がなくなる」とも脅してくる。いわゆるダブルバインドですね。手も足も出ない。「どうすりゃいいのさ、この私」ですよ。 

 だから大学に就職して研究論文を書くようになってから、私にとっては研究がセラピー代わりになっていたし、女として自分がどのような社会構造の中で二級市民にされているのかを、文学を通して理解しようとしてたんです。

――文学研究だけでなく、40代の頃の恋愛経験も「母からの自立」を後押ししたことが書かれています。

 恋人のDVに苦められた女が、その男と別れてもまた同じように暴力を振るう別の男を選ぶことがあるでしょう? あれは私の理屈で言うと、無意識のうちにそういう相手を自ら選んでいるということ。

 人間は本質的に問題を解決したい生き物なんですよね。恋愛に限らず、いつも同じような失敗パターンを繰り返す人は、その問題を解決したい願望を持っている。

 私の場合は、恋愛が「自分の親との代理戦争」になっていた。彼の私の扱い方が、母の支配の仕方とそっくりだったんです。そのことに気づけたおかげで、自分を支配していた男社会の正体が見えたし、母が男社会の「代弁者」だったことにも気づけた。

 その恋愛が終わった時に、ようやく私は母に自分の意思をまっすぐ伝えられるようになりました。

「お母さん、これは私の問題だから私に決めさせて」って。それが46歳のとき。そこからが人生の再出発。

「40代でようやく言えるなんて遅すぎる。私なんて20代のうちから母親に言いたいことを言ってきましたよ」と人に言われることもあるけど、それはちょっと違うかなって。言ってみれば、私は46歳までずっと自分のつらさの正体を文学というものを通して研究してきて、女性差別の構造を自分なりに理解した上で、母の言いなりにはならないこと、すなわち男社会の言いなりにはならないことを宣言することで新しい一歩を踏み出したわけだから、この一言はまさに「画竜点睛(がりょうてんせい)」。そのあと私は自由になれました。

 そうやって研究活動を通して腹の底から絞り出した理屈は、そのあと他人に何を言われようとも揺るがないものになりました。

90年代のバッシングは不可避だった

――50代からは活動の場を広げ、『ビートたけしのTVタックル』などバラエティ番組にも積極的に出演。たびたび放送される田嶋陽子vs男性論客の構図を見て、“怒れるフェミニスト”の印象を植え付けられた人も少なくありません。

 当時、女の人が人前で怒ったりすると「女らしくない」などと批判された時代でしたから、世間からはこれ以上ないってくらい叩かれました。私が一言話すと、石原慎太郎のように声が大きくて世間的評価の高い男性陣がわーって一斉に反論してくるから、その先の説明がまったくできない。反論できても編集でカットされる。何百回も悔しい思いをしたし、そのジレンマが悔しくて何度も心が折れました。

 それでもテレビ出演を続けたのは、女性が不平等な立場に置かれていることをメディアという「拡声器」を使って、なんとか一般の人たちに伝えることで考えてもらいたかった。それに、何よりも自分の腹の底から絞り出したフェミニズムの理屈でしたから。それによって自由になったのだから、私は自分なりのフェミニズムに自信があったのです。

 だから叩かれて心が折れても、どれだけ社会的地位が高い男性が相手でも、怖くはありませんでした。

 そもそも日本の人権意識が30年くらい遅れている原因は、男社会のせいです。男が自由に目一杯働ける社会を成り立たせるためには、家庭を支える専業主婦が必要だった。だから「良妻賢母」の価値観が美化され、みんなそれが女性の生き方だと思い込まされていたわけです。

 でも良妻賢母って「妻」と「母」という役割はあっても「自分」はいないでしょう? 自分がいないってことは、自由もないし自立もできないということ。その状態が続く限り、男が女を対等に見ることは決してない。

 結婚や出産が女性の一番の幸福だとまだ思われていたあの時代に、そんなことをテレビで主張したから女性からの反発も大きかった。90年代は専業主婦が主流でしたからね。

――平成ではバッシングを受けていた田嶋さんが、共働き家庭が主流となり、ジェンダーギャップ解消の方向へ社会がシフトしている令和では再評価されている。このギャップをご自身はどう受け止めていますか。

 ギャップというより、私が望んでいた方向への変化ですよね、社会のシフトに役立ち、再評価されているというなら、ありがたいことです。

 実際、このところ女性の活躍はめざましい。あらゆる業界で活躍している女性の数は間違いなく増えている。すばらしい変化ですよね。大学の研究者や直木賞受賞作家も女性が増えたし、日本人として初めて国際刑事裁判所(ICC)所長になった赤根智子さんのように海外で活躍する優秀な女性も多い。

 自分の足で歩いて自分の人生を築いていく。そんな女性が間違いなく増えてきているように感じます。ただ、相変わらず、政府はいちばん時代遅れ。選択的夫婦別姓一つ通さないことで女性の足を引っ張っています。なんとも情けないことです。

自分の欲求を叶えるために家を買う

――田嶋さんは自立のひとつの形として、「自分の家を持つ」という自由も推奨していますね。

 私は子どもの頃から「いい子になれない自分は家から追い出されて捨てられるかもしれない」という恐怖心におびえていました。だから大人になったら誰にも追い出される心配のない、自分名義の家を絶対に買おうと決めていました。

 フルタイムで法政大学に就職したのが31歳のときだったので、そこから必死で頭金を貯めて35歳のときに立川市の町はずれの玉川上水近くに一軒家を購入しました。当時、津田塾大学でも非常勤で教えていて、玉川上水べりを自転車で津田塾まで行っていたからです。銀行が「女の助教授なんて生意気だ」とお金を貸してくれなかったけど、不動産屋さんが懸命にローンを組んでくれるところを探してくれて何とかなりました。

 いろんな人に反対されても、家一軒を持ったのは大正解でした。そのおかげで必要に応じて2軒目、3軒目と買い替えながら都心に近づき、軽井沢にも拠点を持つことができました。

 自分の欲求をきちんと実現させる。世間に遠慮して「女が家なんて持つもんじゃない」なんて声に従っていたら、今の自由はなかったんじゃないかな。私はお給料をもらうようになったら、真っ先に自分の家を買いたいって思っていたから、実現できて本当によかったと思っています。

 以来、45歳のときに建てた軽井沢の家と都心の家の2拠点を毎週行き来する生活を送っています。

 テレビによく出演していた頃は、平日は東京でボロボロになるまで戦って、週末は自然に囲まれた軽井沢にひっそり引きこもってお粥をすする生活でした。あのとき、軽井沢という居場所がなかったら、私は多分生きられなかったと思う。

もっと自分に期待して

――60代からは国政進出やシャンソンを、70代からは書アートを始めるなど、常に新しいことに挑戦をされている田嶋さんですが、夢中になれるものに出会う秘訣はありますか。

 秘訣なんてありませんよ。歌なんて誰でも歌えるし、絵を描くことだって子どもでもできるでしょ(笑)。私の場合は子供時代にその経験が不十分だった気がして、たまたまきっかけがあったからもう一度やってみようと思っただけ。

 だから、気になることや心残りだったことがあるなら、みんな大人になってからもう一度やってみればいいんです。心残りを取り戻すことは、自分を大事にする方法のひとつなんだから。

 もうひとつ、私の場合は「これをやったらどんな自分が出てくるのか、見てみたい」という気持ちがあります。私にとっての「自分」って、結構「他人」みたいな距離感なんですよ。だから生計のためや必要に迫られて発揮してきた能力とは別の能力に、きちんと正面から向き合って鍛えてみたら、どこまでできるようになるのか、見てみたい。

 シャンソンをちゃんと練習したら、人の心に届く歌が歌えるのか? 書アートではどんな自分と出会えるのか? そういう興味の対象として自分を観察しているところがありますね。

――さまざまな挑戦と経験を通じて、「女らしさ」だけではなく、「自分らしさ」も脱いでいい、変容していいのだと気づいていく過程も『わたしリセット』では書かれています。

 だって「らしさ」って本物じゃないものね。「女/男らしさ」は社会が管理しやすいよう、個々人に押し付けるために作った社会規範だから。男はより働かせやすいように、女は男をよりよくケアするように、意図的に作り上げられていたのが「らしさ」の正体。

 性別の「らしさ」を脱いでみたら、自分がどれだけ自由になれるか。想像してみて。

 自分で思い込んでいる「自分らしさ」だって、本物じゃない。自分なんて玉ねぎみたいに、むいてもむいても新しい何かが出てくるものなんだから。大変だけど、一生かけてそれをやっていくのが面白いかもしれない。

 自分を生きるとはどういうことか、自分が本当に何をしたいのかを知ることは、世界を知るのと同じくらいに大変だと思うよ。自分とちゃんと向き合い続けている人は、どこかで自分にぴたっとくるものが見つかるはずだから。

――自由に人生を謳歌している田嶋さんの生き方に、勇気づけられる女性がたくさんいる気がします。最後に、今を生きる女性たちにメッセージをお願いします。

 みんな、もっと自分に期待していい。「らしさ」がどうであれ、やっぱり最後は「自分がどう生きたいか」ですよ。

 わがままに、「わが・まま」に生きましょう。あなたの人生なんだから。