
入社10年目、仕事の合間に執筆
文藝春秋の会議室で、城戸川さんと挨拶をした。紺色のスーツにマッチした赤いネクタイは“勝負”用。名刺の差し出し方も手慣れている。作家インタビューというよりは、ビジネスミーティングのようだった。
「書店さんや版元の営業さん、作家さんが集まる飲み会に参加したことがあるのですが、なぜかやたらと作家さんから名刺を渡されるなぁと思っていたら、どうやら出版社の新顔社員と思われていたようです。ネクタイをしていたのは僕だけでしたし……」

そう笑う城戸川さんは、東京大学経済学部卒業後に商社に入り、入社10年目の現役商社マンだ。
「基本的に夜型人間なので、夜に書いています。それから昼休みに会社近くの公園に行き、3分でコンビニのサラダとおにぎりを食べて45分書く、通勤電車で座れた時はポメラ(文章作成に特化したデジタルメモツール)を膝の上で開いて書く、といったこともしていました。あとは土日や祝日を使っています」
主人公のモデルは3人
本作は、食品原料の専門商社に勤務する入社3年目の女性社員・高宮麻綾が主人公。グループ企業のビジネスコンテストに新規事業を提案し、晴れて優勝してそのアイデアを事業化することに燃えている。事業案を練りに練って完璧なプレゼンテーションを行い、事業化の権利を勝ち取ったものの、親会社が“リスク回避”を理由に白紙撤回。怒りを爆発させながら社内外を駆けずり回るうちに、さまざまな謎や理不尽な出来事に遭遇する。高宮は自ら考えた新規事業に並々ならぬ思い入れがあり、実現すれば世の中を変えることができるという確信を持っている。勝ち気で強引なところがあり、腹立たしいことがあれば舌打ちするし、荒っぽい言葉も吐くキャラクターだ。
「登場人物の中で、高宮麻綾だけは3人のモデルがいます。一人は自分。面白いと思ったものに脇目も振らずに突き進んでいくのは良くも悪くも僕です。舌打ちや貧乏ゆすりをして、怒りを原動力に執念深く突き詰めていくのは、入社後に仕事を教えてくれた恩人の先輩がベースになっています。もう一人は粘り強く、したたかに、しなやかに、戦略的に根回しができる優秀なグループ会社の人。この3人が合わさって高宮麻綾になっているんです」
高宮は、「これだ!」と思った仕事に信念を持ち、その熱意ゆえに時には荒々しさも出てしまうという尖ったキャラクターだが、城戸川さんはあえて尖らせたつもりはないという。
「面白いと思ったことを突き詰めていくのに老若男女は関係ないし、真剣にやっているからこそ、理不尽なことにぶち当たったら粗野になるのも自然だと思うんです。表面的には荒く見えても、誰よりも真面目に仕事に取り組んでいることは、わかる人には伝わるはず。高宮は自分が諦めたら、新規事業が終わってしまうことがわかっているからいろいろ奮闘するわけですが、自分が最後の一人、“ラストマン”という感覚は、僕も仕事で大事にしていることです」

高宮は、不本意な部署に異動させられたり、大阪の会社に出向したりと、状況が目まぐるしく変わりゆく中でも、なんとか現状を打破できないかと奮闘する。その姿に読み手も惹きつけられ、「熱くなれる仕事って、こんなに面白いのか!」と触発される。
「別に仕事じゃなくて趣味でも何でもいいのですが、もっと自分の好きなことを思い切りやったらいいのに、と思うことがあるんです。もちろん仕事は大変だけど、少し解釈を変えたり、ちょっとはみ出してやってみたりしたら、好きなことができるかもしれない。自分の“好き”をもっと出して、それを実現するためにもがいてみたら、会社や社会がもっと良くなっていくんじゃないか、もっと面白くなれるんじゃないか、って思うんです。高宮みたいに“たまらない瞬間”を追い求めて走っている人を見て、自分も頑張ろう、と思ってもらえたらすごくうれしいですね」
最後の一人になっても諦めない。ワクワクする気持ちに従い、突き進むという“高宮イズム”は、城戸川さん自身にも重なる。本作の第5章は、かなり手に汗握る展開となっているが、作品を書き上げた当初、この章はなかった。松本清張賞の締め切り1週間前にドイツ出張が入り、行きのフライトで一気に書き上げたという。
「物語の展開に何かしっくりこない、高宮との間に決着がついていない人物がいるなと思っていて、たまたま飛行機に乗る時に閃きました。機内ではすごい“ゾーン”に入って、14時間で原稿用紙80枚分を書き上げたんです。この部分がなければ、たぶん僕はいまここにいないです」

「辻堂ショック」で一念発起
城戸川さんの読書体験の原点は、母に読んでもらった絵本。『こんとあき』や『ぽとんぽとんはなんのおと』などに始まり、小学生の頃には「エルマーとりゅう」「ハリー・ポッター」「ダレン・シャン」「バーティミアス」といった海外ファンタジーシリーズや、「パスワード探偵団」「名探偵夢水清志郎」などの青い鳥文庫の小説に没頭。中学、高校時代は伊坂幸太郎や宮部みゆき、道尾秀介、塩田武士といった日本の文芸小説を多く読むようになった。
「本を読むのが大好きだった一方で、自分の話で誰かを笑わせたり、面白がらせたりするのが好きでした。高校時代のフェンシング部の顧問は人生一番の恩師なのですが、その先生は、ヤマ場があってオチのある話をしないとめちゃくちゃ怒るんですね。それでずいぶん鍛えられました」
1年の浪人生活を経て、東京大学に進学。就職も決まり、あとは卒業するだけという4年生の時に、城戸川さんにとって衝撃的な出来事が起こった。それは、同じく東京大学に在学していた辻堂ゆめさんが2014年に第13回「このミステリーがすごい!」大賞「優秀賞」を受賞し、東京大学総長賞を授与されたのだ。
「辻堂さんとは面識がなかったのですが、同学年。この話を聞いた時、自分の中ですごくショックだったんです。僕も本好きで、時間はたくさんあったし、話をして人を面白がらせることも好きなのに、小説を書こうなんて一切思いもしなかった。なんで自分は書こうとしなかったんだろう、と激しく後悔しました」

就職も決まって一安心だと思っていた城戸川さんは、「自分の人生はこれで良かったんだろうか?」と思ったという。仕事が厳しく、思うように活躍できない自分をもどかしく思っていた入社2年目に、大学4年生の時の後悔を思い出して、山村正夫記念小説講座(現・森村誠一・山村正夫記念小説講座)に通うことに決めた。
「個人的な考えに、我流はよくない、基礎固めが大事というのがあります。フェンシングもそうですが、基礎が身についていないと、型破りではなく形無しになってしまう。変な癖がつく前に、きちんとした型を身に付けたいと考えたからです。教室の見学に行った時、自分よりもはるかに年上の50人くらいの大人が真剣に小説と向き合っているのを見て、ここはいい場所だと思いました」
2020年に「元彼の遺言状」で第19回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した新川帆立さんも、城戸川さんと同じ東京大学卒業で、同講座に在籍していた。
「新川さんは僕の後に入ってきて、一瞬で抜き去っていきました(笑)。華々しい経歴に目が行きがちですが、彼女の場合、努力の質と量が異次元なのを間近で見ていたので、ショックというよりは、なるべくしてなったと思いました。教室の仲間の活躍は、大いに刺激になりました」

ワクワクできる人生、いいものだぞ
同講座に通いながら、仕事で得た情報や知識をそのまま書くことはできないが、仕事を通じて感じた喜びや怒りといった感情は小説に書ける、と考え“お仕事小説”を書くようになった。ある時、森バジルさんの第30回松本清張賞受賞作『ノウイットオール』を読み、「いろんなジャンルが混ざった連作短編集が受賞できるなんて、松本清張賞は懐が深い。お仕事小説も受け入れてもらえるんじゃないか」と考え、その時に執筆していた本作を松本清張賞に応募することに決めたという。
惜しくも松本清張賞の受賞は逃したものの、文藝春秋から連絡があり、異例のデビューが決定。その約1年後に、書店に自分の小説が並ぶという、小説家としてはドラマチックな展開に実感がわかないという城戸川さん。
「完全に高宮麻綾的展開というか、自分でもずっと信じられない気持ちでいます。でも、ずっとドキドキしていて、楽しんでいる感じ。本の帯に『こんな会社辞めてやる!』ってありますが、別に辞めるつもりはありません(笑)。単純に今の仕事が好きですし、仕事と小説の両方から得られるものがあるので、社内でも上手く根回ししながら、これからも書き続けていきたいです」

『高宮麻綾の引継書』は発売されたばかりだが、現在、もう続編を執筆中という。
「仕事との両立は大変だけど、これは自分が望んだ修羅の道。小説を通して、熱中できるものがある、ワクワクできる人生ってなかなかいいものだぞ、っていうことを伝えられたらうれしいですね」
