〈まんまこと〉シリーズ最新刊「ああうれしい」 江戸の感覚とらえ、現代につなげる畠中恵の技(第25回)

私の中で畠中恵『まんまこと』(文藝春秋)と京極夏彦『巷説百物語』(KADOKAWA)は仲間である。
同じ江戸時代を舞台にした小説というだけではない。共通項は前田勇『江戸語の辞典』(講談社学術文庫)だ。『まんまこと』は、後で説明する町名主の跡取り息子・高橋麻之助を主人公とする連作小説で、第1巻の表題作が「まんまこと」だった。まんまと言ってもご飯のことではない。『江戸語の辞典』によれば、「真事の強調語。まったくの本当」の意である。「ど真ん中」とは言わないのだ。それは西から入った言葉で、江戸・東京では「まん真ん中」である。
『巷説百物語』の主人公である又市には「御行奉為」という決め台詞がある。ひらがな表記すると「おんぎょうし、たてまつる」で『江戸語の辞典』にも項目があり、「行者の唱える文句か」と書かれている。つまり『まんまこと』も『巷説百物語』も、江戸で普通に使われている言葉やそれに基づく感性を土台にした小説なのである。だから仲間だ。
このたび刊行された畠中恵『ああうれしい』は〈まんまこと〉シリーズ(文藝春秋)の第10作である。帯によれば、いつの間にかこの連作、累計165万部のベストセラーになっていた。にもかかわらず、実は畠中恵は直木賞を獲っていないのである。2007年に『まんまこと』で第137回の候補に挙がったが、それきりだ。意外な気がする。こんなに人気のある大衆小説作家なのに。
前述したように〈まんまこと〉シリーズの主人公である麻之助は、町名主の跡取り息子である。江戸は行政・司法官の数が限られていて、士分ではない町人に権限が一部委任されていた。各地域の責任者が町名主である。その上が町年寄だが、これは広い江戸に3人しかいない。町年寄は町奉行直属の立場であるから、細かいことには関わらない。つまり自治の責任者は町名主なのである。町名主の元には住人が訪ねてくる。それを玄関先で出迎えて相談に乗るのが主な仕事だ。時には民事や家庭裁判所が扱うような判断をすることもある。
その跡取り息子なのだから責任重大なのだが、麻之助はのんきな性格で、父親である宗右衛門に小言をもらいながらも穏やかな日々を過ごしている。その彼が高橋家に持ち込まれる数々の事件や騒動を通じて次第に成長していく、というのがシリーズの骨子である。細かいことはすべて飛ばして書くと、いくつかの悲しい別れを経験するうちにいつの間にか麻之助は成長し、前巻『おやごころ』では妻・お和歌との間に宗吾という子を授かった。極楽とんぼがついに人の親になったのだ。
縦の軸が麻之助の成長物語だとすれば、横のそれは人間関係の難しさを描くことである。誰もが一人ひとり違う心を持っている。よかれと思ってしたことが誰かの感情を害するかもしれない。ふたりでいたときは大丈夫でも、それが3人になった途端に揉め事の火種が生まれるかもしれない。そうした心の不思議を、手を変え品を替えて畠中は描いてきた。揉め事解決の物語だから毎回同じような話が繰り返されそうなものだが、どの話もすべて違うように感じられる。巻を重ねるごとに登場人物も増えてきた。その多彩さが第一の魅力である。
たとえば本書の表題作では、麻之助が料理屋の主・靖五郎から相談を受ける。すでに功成り遂げた大店の主は、このところ心から「ああ嬉しい」と思ったことがないと気づいたのだという。ぜひまたそう思ってみたい。そんなことが町名主の仕事なのかと首を傾げつつも、支配町では名の知れた人物からの頼みとあれば仕方なく、麻之助は靖之助の「ああ嬉しい」を探して奔走するのである。
幸せの種が意外なほど身近に転がっているもの、という物語の類型がある。そうした話に着地するのかと思わせておいて、麻之助は別の答えを見つけだしてくる。本作は純粋なミステリーではないのだが、その要素が効果的に使われており、結末にはいつも意外性がある。
人情に現代も過去もないように思われるが、必ずしもそうではない。麻之助の許に持ち込まれるのは、時として現代ではありえないような頼み事だ。「縁談色々」はそういう話で、麻之助がふたつの難しい縁談をまとめなければならない羽目に陥る。ひとりは元御殿女中勤めをしていたお美代様の養女・お秋で、もうひとりは二十歳で夫に死なれたあと、良縁がなくて一人暮らしが続き、ついに思い切って江戸に出てきた、お真沙という女性である。縁談をまとめる、という行為自体に現代では時代遅れの感がある。だが麻之助が生きていた江戸は、女性がひとりで仕事をして生きるということ自体が難しい時代だったのだ。
まずはおなごでもできる仕事が見つけたいと言うお真沙について麻之助は江戸を回るが、なかなか決まらない。縁談相手を見つけるよりも仕事を決めることが先か、と訊ねた麻之助に、お真沙はこう答えるのである。
「婚礼と仕事を比べてるんじゃ、ないんです。あたし、一人でも食べていける力が欲しい」
この言葉がごく普通のものだと考えるのは現代人だろう。というか現代でも、なぜ女性がこんなことを言うのか理解できない人もいるはずである。こうした現代に通じる問題意識が、さりげなく物語の中に挟み込まれている。全体はあくまで江戸の感覚で貫かれているので、こうした現代的な意識が差し色のように挿入されると、読む者の目を捉えることになる。麻之助たちは過去の人だが、決して切り離された世界にいるわけではない、と読者に思わせてくれる。
通読して感じたのは、麻之助が齢を重ねて成長したということであった。シリーズの初期作では、麻之助が幼馴染の八木清十郎、相馬吉五郎といった幼馴染の力を借り、問題を解決するという話が目立った。チームで世間と対決しているような雰囲気があったのである。しかしそれぞれが歳を取り、ある者には子が生まれ、またある者は家の中でも立場が異なり、というような変化があり、悪友がつるんでいつでも動き回れるような状況ではなくなった。いっぽんどっこでやっていくようになったのである。本作でも仲間のひとりが、重大な決断をしてまたひとつ人生の階梯を上る場面がある。
とある婚礼話のごたごたを描いた「ふじのはな」で、麻之助は父・宗右衛門からこう言われる。
「つまりだ、若くて、無茶と軽さが道連れであった時期が、過ぎようとしてる。そういう事なんだよ」
町名主仲間のひとりが怪我のためしばらく休むことになり、その穴を埋めるために奮闘する息子を麻之助たちが補佐することになる「おとうと」では、かつて自分もそうであったように若さを剥き出しにする人物に、麻之助が距離をとって大人の対応をする。こういうことは、順繰りだよな、と思うのである。
人生の中で出会うさまざまな局面、特に時間の経過が不可逆で、いかに大事なものかを思い知らされるような場面が本シリーズではたびたび描かれる。麻之助が感じる嬉しさや寂しさは、すべて自分のものでもあるのだ。多くの読者がわがことのように夢中になって読む。それこそが大衆小説だろう。世に大衆小説というものがある意味だろう。