
ISBN: 9784393455081
発売⽇: 2025/05/21
サイズ: 19.5×3.1cm/500p
「至上の幸福をつかさどる家」 [著]アルンダティ・ロイ
デリーの一隅にある墓地から、物語は始まる。そこに暮らすのは一人の女(ヒジュラー)、アンジュム。ヒンドゥーとムスリムの対立に起因する暴動に巻き込まれた挙句(あげく)、仲間たちの家を出て墓場に住みついた。彼女の盟友となるサッダームもまた、ある事件を経てデリーの周縁に流れ着いた若者だ。そして、風変わりで聡明(そうめい)な女性ティローと、その友人ムーサー。大学時代に出会い、惹(ひ)かれあいながらも別れた二人が再会したとき、ムーサーは故郷のカシミールで、インド軍の占領に抗する武装ゲリラの闘士になっていた。出自も来歴も異なる四人の経験と足跡が、陰影に満ちたインドの現代史と絡み合う。
物語を通して露(あら)わになるのは、この国を席巻する「サフラン色」――ヒンドゥー至上主義――の力だ。敵を容赦なく攻撃し、その死さえも無きものとする力。
印パ紛争の震源地であるカシミールには、苛烈(かれつ)な暴力が渦巻く。インド軍と武装ゲリラ、住民たちがせめぎ合い、抵抗と虐殺が繰り返される。この地で再会したティローにムーサーはこう語る。「自由(アーザーディー)以上に、今や尊厳のための戦いだ。(中略)負けたとしてもだ。死んだとしても」。その戦いには、だが絶望が織り込まれている。自由を求める叫びさえ、戦争を駆動するシステムに絡め取られる。殉教者墓地(マザーレ・ショハダー)に眠る殺された人々の声は、どこにも届かない。
この殉教者墓地と対照をなすのが、アンジュムたちが作り上げ、ティローを招き入れた場所だ。荒(すさ)んだ墓場に出現した、奇妙なゲストハウス。そこには傷ついた者を迎え、死者とともに暮らす「ぼろぼろの天使たち」がいる。その愛に生者も死者も包み込まれ、失った魂を取り戻す。それは追悼と再生の道程だ。
未来を託して去っていった者たちとともに、私たちは歴史を生きる。懐かしい死者たちに見守られ、生者は眠りにつく――この世界の果ての、楽園ゲストハウスで。
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Arundhati Roy 1961年生まれ。インドの作家、社会活動家。97年に『小さきものたちの神』でブッカー賞。