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「自由」(上・下) 「中庸」の政治家たりえた理由は 朝日新聞書評から

評者: 中澤達哉 / 朝⽇新聞掲載:2025年07月05日
自由 上 著者:アンゲラ・メルケル 出版社:KADOKAWA ジャンル:外国のエッセー・随筆

ISBN: 9784041136324
発売⽇: 2025/05/28
サイズ: 14×19.5cm/416p

自由 下 著者:アンゲラ・メルケル 出版社:KADOKAWA ジャンル:外国のエッセー・随筆

ISBN: 9784041136331
発売⽇: 2025/05/28
サイズ: 14×19.5cm/408p

「自由」(上・下) [著]アンゲラ・メルケル

 実を言うと、メルケルの回顧録の表題が「自由」だと聞いた時、耳を疑った。彼女の任期を一言で表すなら、「自由」よりも、「民主主義」か「統合」あるいは「試練」のほうがはるかに合っていると感じたからだ。ただ、読み進めるにつれ、なるほど、旧東独出身の彼女にとって、「自由」を求めた1989年革命がいかに重要であったかがわかった。チェコスロヴァキアのドゥプチェクやポーランドのヴァウェンサ(ワレサ)ら体制転換の立役者の感覚に近いと感じた。
 メルケルの独首相在任16年には及ばないものの、英首相を11年務めたサッチャーに言及しないわけにはいかない。21世紀を代表するメルケルの回顧録が「自由」ならば、20世紀を象徴する「鉄の女」サッチャーのそれはシンプルに「ダウニング街の日々」。
 両書は実に対照的だ。サッチャーが自らの新自由主義的信条を繰り返し主張するのに対して、メルケルは柔軟で、イデオロギー的貫徹を求めない。前者は欧州統合に懐疑的、後者は肯定的だ。双方とも保守党とキリスト教民主同盟という両国を代表する保守政党のトップ。なのに、なぜこうも違うのか。その理由の一つは、冒頭で述べた「自由」の問題に帰着しそうだ。
 ドイツ語で「自由」はFreiheit(フライハイト)。ただし、この語は例えば英語では、政治的に獲得し保障された自由liberty(リバティ)と、個人の生まれ持った自由freedom(フリーダム)の意味を併せ持つ。メルケルがまず描くのは、プラハの春の弾圧に憤る14歳の自分。前半生の彼女が渇望したのは、東独の独裁体制からの解放を目指すリバティとしての自由だった。
 1990年のドイツ統一後の後半生、メルケルはよりフリーダムとしての自由を深慮することになる。彼女によれば、民主主義なくして個人の自由の実現はない。同時にそれは、困難にある人びとを拒まない、責任を伴う自由でもあるという。首相は、自由の基盤と考えた民主主義の持続に傾注したのだ。89~90年を境に自由論の厚みが増すのは、旧共産圏の政治家に特有の現象だが、以後も二つの自由は彼女の中に共存し続けた。
 例えば、シリア難民受入れや欧州統合推進の基盤にあるのはやはり二つの自由。自由観の相違から、プーチンやトランプとの懸隔も捉えられそうだ。極端に偏らず「中庸」の政治家となりえた理由の一端を、本書の自由論から読み取ることができよう。ただ、退任後のこととなるが、ガザ問題へのドイツの一連の対応は彼女の自由論と整合するのだろうか。興味は尽きない。
    ◇
Angela Merkel 1954年にハンブルクで生まれ、旧東独で育つ。物理学の博士号をもち、ドイツ再統一の90年に政界へ。2000~18年にキリスト教民主同盟(CDU)党首。05~21年、初の女性首相。21年に政界引退。