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「うんこ」は誰にとっても他人事じゃない  紀伊國屋書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

おもちゃ屋に並ぶうんこグッズ。今も昔も子どもに人気(東京・銀座の博品館TOY PARKで)
おもちゃ屋に並ぶうんこグッズ。今も昔も子どもに人気(東京・銀座の博品館TOY PARKで)

「うんこ」ブーム

 ここ最近、明らかに「うんこ」がブームになっている。

 書店の現場にいると、「うんこ」に関連する本の出版が増えていると感じるし、ネットでも「うんこ」の話題がたびたび目に入る。2019年に横浜で開催された「うんこミュージアム」もオープン2カ月半で来場者が10万人を突破するほどの盛況で、その後東京、福岡でも展開されている。

 このブームのきっかけとも言えるのが2017年に文響社から発売された『うんこ漢字ドリル』シリーズだろう。知っている方も多いと思うが、子どもの集中力が続くように、例文すべてに「うんこ」という言葉を使用した漢字ドリルだ。このシリーズは大ヒットとなり、その勢いたるや子ども向けの学習参考書の枠を超え、多くのワイドショー・情報番組で取り上げられるほどであった。

本当に「うんこ」が好きなのか?

 こういったブームを見ると「やっぱり子ども(というより日本人)はうんこが好きなんだな」と思うかもしれない。確かに私も子どもの頃、湿気でくもった窓があればたいてい「うんこ」の絵を描いていたし、「薀蓄(うんちく)」や「運行(うんこう)」という言葉でニヤリとしていた記憶がある。

 だが一方で、学校で「うんこ」をするのに抵抗があったのも事実だ。特に小学校高学年にもなると学校で「うんこ」を漏らそうものなら確実にいじめの対象になるという緊張感があった。最近の新聞やネットの記事を見る限りおそらく今もそう変わらないと思われる。

 つまり我々は、あくまでも記号としての「うんこ」が好きなのであって、リアルの「うんこ」に関しては汚物としてタブー視しているのではないだろうか。

「うんこ」=「汚物」なのか?

 今の日本の都市部はほとんどのトイレが洋式・水洗になっており、出した「うんこ」を即座に流す事ができる。臭いもあまりしないし、ウォシュレットを使えば「うんこ」を全く見ずに生活することすら可能だ。

 だが、歴史的に見れば「うんこ」は単なる汚物としてタブー視されてきたわけではない。それを解き明かしてくれるのが『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか ―― 人糞地理学ことはじめ』(湯澤規子 著、ちくま新書)だ。

 本書の第一章「ウンコとは何か」では、“はたしてウンコは「汚い」のだろうか”として、

ウンコそのものは「絶対的に」汚物であるのではなく、あるタイミングで、ある条件のもとで、そしてある主体によって「相対的に」汚物と名づけられ、それが広く定着して今日に至る、ということになりはしないだろうか。

と問題提起している。

 そして「うんこ」の別名である「糞」には語源的に「畑に両手でまく」という説があることを紹介しつつ、日本では「うんこ」は近世以降、肥料として金銭や野菜などの現物で取引されてきたことを多くの資料をもとに詳細に解説している。

 かつての日本人にとって「うんこ」とは単なる汚物ではなかったのだ。

 ところが、近代に入ると急激な人口増により「うんこ」の需給バランスが崩壊し、「うんこ」の価値が暴落してしまう。本書の第四章以降では近代以降「うんこ」が徐々に「汚物」とされていく過程が克明に描かれているのだが、意外にも戦後も相当数の「うんこ」が肥料として使用されていたそうだ。

 個人的に興味深かったのは日本の「うんこ」利用に対する西欧の認識である。

 19世紀の開国直後の西欧人の記録では、日本では「うんこ」が肥料として利用されているために“「うんこ」に起因する病気が(西欧より)少ない”として賞賛されているが、戦後のGHQでは 日本の「うんこ」の肥料利用が“非衛生的で耐えがたい”ものと認識されている。「うんこ」=「汚い」というのがいかに「相対的」であるかを示しているのではないだろうか。

「うんこ」の今

 人間が生活する上で排泄は必要不可欠だ。「うんこ」は他人事ではありえない。

 今自分がした「うんこ」がどうなるのかを知るのも人間として当然知っておくべき常識なのではないだろうか。

 先ほど紹介した『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』でも語られているが、それを綿密な取材でさらに掘り下げたのが『うんちの行方』(神舘和典・西川清史 著、新潮新書)だ。

 本書では「うんこ」を含んだ下水がどのように処理され、水となり海に流されていくかが写真付きで詳細に解説されている。同時に問題点も指摘されており、特に合流式の下水問題は、武蔵小杉のタワーマンションでのトイレトラブルや、東京湾でのオリンピックテストイベントでの異臭騒ぎのニュースなどでも頻繁に指摘されており、他人事では済まされないであろう。

 ちなみに下水の処理後の残りカスである「汚泥ケーキ」からはトマトやスイカが生えてくることもあるそうだ。生命の力強さには感心する。

 他にも列車内や富士山でのトイレ事情なども解説されている。特に災害時のトイレ対策については災害の多い日本で暮らす上で必須の知識なのではないだろうか。是非『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』とあわせて読むのをおススメする。

「うんこ」と向き合う

 「うんこ」について知れば知るほど、自分がいかに「うんこ」に関して無知であったかを思い知らされる。そんな人におススメなのが『うんこの博物学 糞尿から見る人類の文化と歴史』(ミダス・デッケルス 著、山本規雄 訳、作品社)だ。本書のシリーズである「異端と逸脱の文化史」からは他にも『うんち大全』、『江戸の糞尿学』が出ている。余裕があれば是非チェックしてみてほしい。

 この本の特徴は何といっても膨大な「うんこ」の知識と、著者ミダス・デッケルス氏(と翻訳者の山本規雄氏)のユーモアにあふれた筆致であろう。

“ウンコのなかのウンコ、あらゆるウンコのなかでも最上、(中略)それこそが竜涎香”
“脱糞は見て楽しいスポーツとは違う”

 などの表現は普通の日本人の感覚では出てこないだろう。本書では人間以外の「うんこ」や芸術としての「うんこ」、果ては罵り言葉としての「うんこ」(どうもネガティブな状況下で「クソ!」と言うのは多くの文化で共通しているようだ)など、「うんこ」に関連する様々な事が紹介されており、読み終える頃には自分の中のタブーの境界線があいまいになっていることに気づくはずだ。

「うんこ」をうまく出せないとき

 最後に紹介したいのが『食べることと出すこと』(頭木弘樹 著、医学書院)だ。

 著者の頭木弘樹氏は20歳のときに潰瘍性大腸炎という難病を患い、13年間の闘病生活を送られている。潰瘍性大腸炎とは大腸の粘膜に炎症が起きる原因不明の難病で、一度かかると一生完治することはないそうだ。安倍前首相などの多くの著名人も(症状の軽重はあるにせよ)罹患しており、耳にしたことがある人も多いのではないだろうか。

 本書では著者が難病にかかり、どのように感じ、生活が変化したかが赤裸々につづられている。例えば病気により食事が制限された状態で人に食べ物をすすめられる時の事や、薬で免疫力が落ちているときに隣で咳をされた時のことなど、語られるのはかなり深刻な場面ばかりなのだが、著者のバックボーンである文学の知識に基づいた表現が不思議なユーモアを醸し出しており、引き込まれる。

 特に「漏らすことの恐怖」や「漏らしても普通に扱われることがどれほど嬉しかったか」についての描写は看護における排泄ケアがいかに重要かを示しており、超高齢化社会に向かう日本で生活する上での必読書といってもいいのではないだろうか。

最後に

 これらの本を読み、私にとって「うんこ」はもはや見て見ぬふりをすることはできない存在となった。そして健康な「うんこ」が出たとき、自分自身の身体に感謝し、自分の「うんこ」を世話する人に思いをはせるようになった。

 食べるときに「いただきます」「ごちそうさま」が言えるなら、出すときにも(心の中で)「ありがとう」が言えるはずだ。

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