米軍の銃撃から守った「血染めの原稿」、筑摩書房創立者が故郷に送った本 塩尻市立図書館「古田晁文庫」
記事:じんぶん堂企画室
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多くの作家たちに愛され、また出版を愛してきた人がいた。古田晁(ふるた・あきら、1906〜1973)。日本が太平洋戦争への道を突き進んでいた1940(昭和15)年、筑摩書房を創立し、戦中、戦後を通じて数々の名作を世に送り出してきた。
出版のため、時には私財を投げ打ち、時には命をかけた古田の人生は、今も語り継がれているが、生まれ故郷である長野県筑摩地村(現在の塩尻市)に、自分がつくった本を寄贈し続けていたことはあまり知られていない。
古田の死後も、遺族や筑摩書房が寄贈を継続し、塩尻市立図書館には2万冊を超える筑摩書房の本が「古田晁文庫」としてコレクションされている。中でも、市民交流センター「えんぱーく」内にある本館の文庫・新書6000冊以上を集めた書架は圧巻だ。
古田の足跡をたどり、その本 への思いを今も受け継ぐ塩尻市立図書館を訪ねた。
「これが、古田が持っていた原稿です。歴史の生き証人ですね」
本館の閉架書庫。貴重資料が収められている棚から、上條史生館長が取り出してきたのは、おびただしい血痕が残る原稿の束だった。今はもう褪色してしまったが、かつてはもっと血痕が赤黒く、生々しかったという。
原稿には、「渋川驍」(しぶかわ・ぎょう)という著者名が読める。古田の旧友であり、作家だった渋川が、作品集出版のために古田に渡したものだった。
1945(昭和20)年8月5日朝、古田はこの原稿を伊那の印刷所に入れるため、新宿駅から松本駅行きの列車に乗った。列車が東京から神奈川へと抜けようと、湯の花トンネルにさしかかった時だった。古田が膝の上で広げて読んでいた原稿に、さっと血が飛び散った。古田はとっさに身を伏せた。
敵機来襲。見れば、乗客は次々と機銃掃射を受けて悲鳴をあげ、車内は地獄絵図と化していた。原稿の血しぶきは、古田の席のひじ掛けに腰を寄せていた男性が、機銃掃射を頭に受けて即死したときに散ったものだった。
のちに「湯の花トンネル列車銃撃事件」と呼ばれるアメリカ軍の戦闘機による銃撃である。おおぜいの一般市民を乗せた無防備な列車は、戦闘機の執拗な銃撃を受け、死者65人以上を出したとも言われている。
死の恐怖に怯えながら、九死に一生を得た古田。この時の「血染めの原稿」は、作品集『柴笛』として1946(昭和21)年8月15日、敗戦から1年の日に無事、刊行された。
血染めの原稿は現在、そのレプリカが塩尻市内の古田晁記念館に展示されている。
古田は1906(明治39)年、現在の塩尻市北小野に生まれた。古田家は村の中心的名家であり、裕福だったが、父の三四郎が当主を継ぐと、放蕩して家が傾いた。そこで、三四郎は単身アメリカに渡り、生来の豪胆さを発揮して、商売で成功を収めた。
古田は母や祖母の手で育てられ、やがて12歳で長野県立松本中学校に入学する。ここでのちに筑摩書房で編集者となる友人たちと出会った。高校生の頃、そんな友人の一人だった臼井吉見と古田は、こんな話をしていたという。
「岩波書店のなした仕事というものは、ひとつの大学をぶっ建つぐらいの寄与を、日本文化にしてるんじゃあないか。ひとつ、どうだい」「それはいいじゃないか」(「筑摩書房の三十年」和田芳恵著・筑摩選書)
のちに、古田はこのときの会話が出版社を始める動機になったと語っていたという。
松本高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部倫理学科に入学。同じ学科には、あの「血染め原稿」の著者、渋川もいた。大学卒業後は、アメリカ・ロサンゼルスに渡米。父の経営していた商会に勤務した。31歳で帰国し、いよいよかねてからの志だった出版社を始めようと、準備にかかった。
実はこの少し前、同じく長野県出身で、出版社を始めるきっかけとなった岩波書店の創業者、岩波茂雄を古田は訪ねている。相談すると、岩波は意外にも「どの商売も、そうだと思うが、出版はたいへんなものなんだ」と止めたという(前掲書)。
それでも古田は諦めることなく、筑摩書房が産声をあげた。旧制松本中学時代からの親友で、筑摩書房で編集者として辣腕をふるった臼井が、故郷にゆかりのある社名を考えた。
古田の創業の挨拶文も臼井が書き上げたが、なぜか文末の名前が「吉田」になっていた。古田本人が目を通しているのだから、間違えようがないはずだが、そのまま印刷され、配られた。
「古田は自分のことは無頓着なところがあったようです。本人が書いた文章もあまり残っていません」と説明する上條館長。塩尻市では図書館以外にも、古田晁記念館で古田に関する資料を保存・公開しているが、確かに本人が書き残したという資料は少ない。
代わりに多いのが、作家の原稿や作家が古田に宛てた書簡だ。井伏鱒二、川端康成、小林秀雄、島崎藤村、谷崎潤一郎、永井荷風、宮本百合子、武者小路実篤、柳田國男、湯浅芳子…。いずれも古田と縁があった作家で、日本の文壇を代表するそうそうたる顔ぶれだ。現在の記念館である古田の生家に滞在し、作品を書いたこともある作家も少なくない。
中でも太宰治は、筑摩書房が創立した翌年に『千代女』(1941年)を刊行して以来、古田とは深い親交があった。
太宰が1948(昭和23)年6月、玉川上水に入水したことはよく知られている。その数日前、太宰は古田を訪ねていた。しかし、あいにく不在だったため、「会えていたら、太宰さんは死なんかったかもしれん」という古田痛恨の言葉は、太宰の担当編集者だった野原一夫が書き残している(『含羞の人』文藝春秋)。
入水から1か月後、太宰の完成作としては最後となった『人間失格』は、筑摩書房から出版された。皮肉にも当時20万部という、会社初のベストセラーとなった。
戦時中から戦後、筑摩書房は何度かの経営危機を乗り越えてきた。その都度、創立者であり、社長だった古田は自宅を売るまでして金を工面し、世に本を送り出してきた。
そんな古田は、生前から故郷に筑摩書房の出版物の寄贈を続けていた。塩尻市は1959(昭和34)年に1町4村が合併、その後2村が編入合併された自治体だ。古田の生家がある筑摩地村もその一つで、当時まだ図書館がなかったことから、公民館の図書室に出版物が寄贈されていた記録が残っている。筑摩地村時代からのコレクションを引き継いだのが、現在の塩尻市立図書館だ。
なぜ、古田は故郷の図書館に本を送り続けたのだろうか。上條館長はこう話す。
「古田がその理由について、直接話したり、書いたりした資料を見たことがありません。明確な記録は残っていないのですが、自分が生まれ育った筑摩地村に郷土愛を持っていたのではないでしょうか。
古田は東京で筑摩書房を創業してからも、作家たちを地元に招いては執筆活動の支援をしていました。古田にはずっと郷里に対する思いがあったのではないかな、と思います。
出版人として世に立ち、その成果として、出版したものを地元の皆さんに活用していただく。それは、古田の志の延長線上にあったんじゃないかなと推察しています」
古田の死後も筑摩書房による寄贈は継続され、現在までに2万冊がコレクションされている。図書館が購入した本とあわせると、筑摩書房の本は約2万1800冊におよぶ。「古田晁文庫」は、一つの出版社の本を集めた全国でも珍しいコレクションであり、大切な地域資料でもある。
古田の志は、塩尻市立図書館の活動にも受け継がれている。地域の人たちの読書を推進するため、「信州しおじり本の寺子屋」として、図書館が中心となって講演会や講座などを開催、本の可能性を考える機会をつくっている。その事業のひとつに、古田の志を伝える講座がある。
「市民のみなさんには古田を忘れないでほしい、まだ知らない市民の方には知ってほしい、と思っています。また、『本の寺子屋』では著者、出版社、書店、図書館が連携して、出版文化の未来に寄与したいという大きな目的を掲げていますが、そこにもつなげていきたいです」