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「感情的」であるのはいけないことなのか? ジュンク堂書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

「感情的」と言われると“結局黙ることになり、口惜しさと無力感にとらわれる。”(本文より)
「感情的」と言われると“結局黙ることになり、口惜しさと無力感にとらわれる。”(本文より)

「感情」が歴史や哲学の研究対象となっている

 「感情的」と言われて喜ぶ人はいないだろう。褒めるのであれば「感情豊かな」といったように何かポジティブな言葉をつけて使うのが「感情」という言葉ではないだろうか。

 声を荒げる、泣く、無視をする、きつい態度をとるなど否定的な場面においてよく使われる「感情」という言葉、ここ最近書店の人文書フロアではとみに見かける言葉である。

 以前は心理学の棚にある基礎心理研究の中のトピックとしての感情という言葉しか見かけなかったが、ここのところ歴史や哲学の棚でよく見かけ、そしてまたよく売れている。歴史は「感情史」というキーワードで歴史学概論の棚で、哲学は「感情の哲学」や「情動の哲学」などの言葉で分析哲学の棚で。

 感情という自発的で御しがたい何か、が、歴史や哲学といった学問の中でもまた一層硬派なイメージのあるジャンルの中で研究対象になっているという意外性もあり、なぜ今はやっているのか原因もわからずずっと気になっていた。私の知っている感情は哲学という俎上にのせられるとどう形を変えて見ることができるのだろうか、と。

感情のしくみと「価値」

 まずは入門書、ということでちょうど最近刊行された『感情の哲学入門講義』(源河亨著・慶応義塾大学出版会刊)を紹介したい。

 内容に入る前にまず、この本の徹底的な入門書としての在り方がすごい。冒頭にまず導入があって、趣旨説明、この先読むことで何について知ることができるのかをかなり意識的に端的に説明されていて、構成もしっかりとしていてなんだか冒頭を読んだだけで頭が整理されたような気がして満足感が得られてしまう。

 とはいえやはり「感情」という目に見えない、ゆらゆら揺れて定まらないようなものを説明しているのだから、きちんと理解するのは難しい。積みあがったときに崩れてしまわないように、最初の地点をしっかりと定めて一つずつ確かと思われるものを積み上げる、というように今までの様々な研究、説を丁寧に解き明かしそこから考えを広げ、積み上げた末に発見を得るという学問の愉しみまでも感じられる本であった。

 私のこの本での発見は、感情というものの本質が「価値を捉える思考と、価値に対処するための身体的な準備の組み合わせとして理解できるものであること」、感情には志向性があり、それは何らかの対象=価値に向けられていて「恐怖は危険を、怒りは侵害を、喜びは自分の目的に適うこと、悲しみは重大なものの喪失」をそれぞれ対象にしているということだ。 

 そしてその価値というものは主観的なものもあるものの、「それぞれの文化や社会内部で客観的だとみなされ、共有されているものである」ということ。

 もちろんこの本の中ではもっと複雑かつ難解な感情に関する研究についても説明されているが、自分がつい感情的になってしまったと思う今までのあれこれがどういうしくみだったのか、時計を分解してしくみを知るような感覚でわかったような気がした。

「感情的」という言葉で沈黙を強いる

 しくみがわかった気がしたとはいえ人から言われる「感情的」という言葉には価値云々の前にはっきりと侮蔑の意味が込められている。そのひっかかりは個人的にもまだ私自身の中にも残ったままだ。

 会議中や、喧嘩の最中、時にはただおしゃべりをしているだけのような時にさえ、声を荒げるようなことをすると、「感情的」と侮蔑的に言われたことがある人は多いのではないだろうか。これがジェンダー差なのかどうかはわからないが、大勢の場で人と話していて、テレビを見ていて、本や映画などのストーリー上で、この「感情的」という言葉は女性に向けて発せられるシーンが多いように感じる。

 これは結局「黙れ」と同義か、自分の感情を素直に出す幼稚な人という審判を下された、ということなので、こう言われたらお望み通り黙るしかない。反発すると「感情的」という向こうの言い分が決定的なものになるからだ。結局黙ることになり、口惜しさと無力感にとらわれる。

 最近レベッカ・ソルニットの『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』(左右社刊)が刊行されたので、私自身も沈黙させられた口惜しさを思い出して早速読んでみた。

 人文書担当者としてソルニットの幅の広い内容の著作は今まで注目してきたし、『説教したがる男たち』(左右社刊)が出たときは我が意を得たりと思い営業に来てくれた出版社の方にすすめたりもしたのだが、この『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』は私のささいな口惜しさの話なぞではもちろんない。しかし関係は大いにある。「沈黙の歴史は女性の歴史の中心にあるもの」だからだ。

 この本は確かにフェミニズムの本だが、イントロダクションにもあるように「わたしたちの一人ひとりが、性役割と私たちが呼ぶ沈黙の相互作用を含む、多種多様な沈黙の複合体の中に生きて」いて、「男性、女性、子ども、そしてジェンダーの二項対立と境界に挑戦する人たち」みなの経験について語るものだ。

 アメリカの現代社会における、暴力や死をちらつかせて沈黙を強いてきた権力側と、その沈黙を強いられてきた側の権力の構図を象徴した、侮蔑という言葉ではすまない数々の事件。沈黙させられた声をなかったことにさせないソルニットの力強い明晰な文章に、国は違えどジェンダーギャップ指数が世界で120位の日本にいる私は力づけられる…だろうか?

 いや、正直に言えば明晰だからこそつらい気持ちになって憤りばかりが募った。とはいえソルニットのユーモアを交えた文章は胸のすくところも多い。

 特に2章の「五百万年来の郊外から逃れて」で取り上げられている耳タコ言説「狩猟者としての男性」のくだり。男は外に出て狩りをし、非力な女子どもは家にいるみたいな説に矛盾する証拠を出し、ファンタジーと一蹴する。「女が読むべきでない八十冊」で取り上げられる『エスクァイア』誌の「すべての男が読むべきベスト八十冊」の話も。

 今まで直接的にも間接的にも沈黙させられてきた多くの人の屍を乗り越え、まさに「解放と連帯、洞察と共感を寿ぐことに至る旅のような」本だ。

強さやすばらしさの裏に隠された弱さとたくさんの傷

 まだまだ旅の途中だが、ふと多くの屍のことを思い振り返る。家父長制の中を生きた数々の沈黙させられてきた人々。

 『女性画家 10の叫び』(堀尾真紀子著・岩波ジュニア新書)では「自分の裡に突き上げる欲求を、それを押しつぶそうとする時代の状況にもめげず花開かせた」10人の女性画家の人生が書かれている。どの画家の人生も胸をがしっとつかまれて揺さぶられて、読みはじめた瞬間から私の大切な本の1冊となった。

 三岸節子の夫、好太郎に振り回される過酷な人生の中での「絶対に人生の敗者になってはならぬ。勝者になるために生きながらえて、なお時々刻々戦いぬかなければ人間は見事にならないものである」という厳しい言葉。バス事故で鉄のパイプが身体を貫通、一生後遺症を抱えながら激しい恋愛をし、傷つき、多くの絵画を残したフリーダ・カーロの最後の作品に記された“ビバ・ラ・ビダ”(生命万歳)という言葉。

 残された素晴らしい彼女たちの作品を見て私たちは彼女らの強さやすばらしさだけを汲み取ってはいけない。その裏に隠された弱さのことを思い、たくさんの傷を思い、こんな社会で死んでいく人達が少しでも減るように我々は旅を続けていかなくてはならない。

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