冬季オリンピックとボイコットの歴史 「ル・モンド」記者による五輪解説『オリンピック100話』より
記事:白水社
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初めて実施されたウインタースポーツ種目はフィギュアスケートで、それは1908年の夏季オリンピック、ロンドンの「太陽」の下でのことであった。それから数年後、1920年のアントワープ大会で、寒冷地発祥の別の種目が登場する。アイスホッケーである。
19世紀に近代オリンピックが誕生して以来、IOCの何人かは、雪上や氷上で行われるスポーツ種目をオリンピックのプログラムに加えるべく議論を重ねてきた。ある人々により冬季オリンピックを開催する機会が検討されたが、1901年以来独自に冬季スポーツ大会を開催しているスウェーデンのようなヨーロッパ北部の国々は、この種の競技大会の「独占権」を保持するべく頑なに反対していた。
1921年、IOCはローザンヌで会議を開き、3年後にパリで行われる第7回オリンピアードについて話し合った。フランス人の委員のうち2名、クラリー伯爵とポリニャック侯爵は、スカンジナビア以外の国はウインタースポーツの競技大会を開催することができる状態にあると強調し、公式に冬季競技大会の運営を提案した。彼らにとっては、この冬季競技大会は北欧諸国へ示された「敬意」であり、とりわけウインタースポーツの「普及」を可能にするものとなろう。スカンジナビア諸国の委員は、反対にそれが彼らの冬季スポーツ大会に対する競争相手と映っていた。
彼らの神経を逆撫でしないよう、IOCは「近代の7回目のオリンピアードを称揚する機会として冬季競技大会を開催する」後押しの約束を決定した。この機会に、1つのメダルが特別に創られた。シャモニーが「ウインタースポーツ・ウィーク」(1月25日~2月5日)の招致都市に選ばれ、6種のスポーツが採用され16競技が編成された。17ヵ国から出場した258名(男子247名、女子11名)のアスリートを応援しにやってきた10,004名の観客が成功を物語っている。
翌年、1925年5月27日、プラハ会議で、IOCは冬季五輪の公式開催を承認する。すでに実施された「ウインタースポーツ・ウィーク」は(すべての雪上、氷上スポーツが)第1回冬季五輪大会となり、以後は4年ごとに、夏季五輪が行われる同じ年の初頭に開催されることになる。1992年以降、夏季五輪と冬季五輪は偶数年に交互開催(2年ごと)となっている。なお、冬季五輪はこれまでに南半球の国で開催されたことは一度もない。
オリンピック憲章には次のようにはっきりと書かれている。「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」。しかしながら、スポーツはしばしば口実でしかないようにみえる。オリンピックの開催期間中、競技は国家の賭金、つまり自国の優位、強さ、国威を示す機会となる。旧ソ連、中国、アメリカ合衆国……こうしたいくつかの国々は、自国の選手たちがメダルに輝くため、大々的にドーピングを行うことをためらわない。
選手は一種の兵士である。というのも、選手は祖国のために汗を流し、服従するからである。ある国が世界に対して、ある紛争──または別の国家との対立──や、ある国際問題に対して反対を表明することを望んだ際、選手は時として圧力の手段に変わった……。世界規模の共鳴器を生み出すオリンピックをボイコットするということは、それ自体が政治的武器、強力な宣伝活動となり、オリンピックを脅迫するよりもずっと影響力をもった。しかしそのために、オリンピックに出場する選手たちとオリンピック精神が犠牲になっているのである。
1896年に、トルコはギリシアとの紛争を理由に、アテネで開催された第1回大会の参加を拒否した。1956年、スイス、スペイン、オランダは、ソ連によるハンガリー侵攻に抗議してメルボルン大会をボイコットした。同じく、フランス、イギリス、イスラエルがスエズ運河を占領したことに反対してイラク、レバノン、エジプトも同大会をボイコットしている。
メキシコ大会からモントリオール大会まで、すなわち1968年から1976年まで、数多くのアフリカ諸国が、南アフリカ、南ローデシアのアパルトヘイトを糾弾すべくオリンピックへの参加を取り消す。冷戦の最中には、アメリカ合衆国は64ヵ国とともにソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、1980年のモスクワ大会をボイコットする。4年後、その仕返しとばかりに、ソ連と14の同盟国は、ロサンゼルス大会に参加しなかった。中国と台湾、韓国と北朝鮮の間で普段は程度の差はあれ表面化していない対立も、オリンピックを通じて表出する。
いかなるボイコットも起こらないオリンピックを見るには、1992年のバルセロナという時と場所を待たなければならなかった。2008年の北京大会で、何名かの選手といくつかの団体が、人権侵害とチベット弾圧に抗議するために中国で開催されるオリンピックへの参加を拒否する運動を展開しようと試みた。彼らはオリンピック旗を曲解し、旗の中央に輪ではなく、手錠が繋がっていると見えたのである。
近年では、インドが2012年のロンドン大会をボイコットする可能性があった。インドはアメリカの化学メーカーであるダウ・ケミカルがスポンサーであることに腹を立てていたからである。その系列会社の1つは、1984年にボパールで数万人のインド人が死亡する事故を引き起こしていた。
【ムスタファ・ケスス『オリンピック100話』(白水社文庫クセジュ)より紹介】