オリンピックに得体(えたい)の知れない恐怖を抱いている。コロナ禍は終息せず、私たちは自粛生活を強いられているのに、開催できると言い続けるIOC(国際オリンピック委員会)って、いったい何者なのだろう。
小学生のときにモントリオール五輪に熱中して以来、無類のスポーツ観戦好きとなり、スポーツを通じて社会は良い方向に変えられるという信念も持っている私が、こんなにまでオリンピックに嫌悪を感じるとは。
日本はIOC帝国の植民地か、という批判があったが、その表現はもはや比喩ではない。IOCによる「不平等条約」のために住人たちが拒否できないという状況は、支配者が自分たちの利益のために植民地を踏みにじってきた歴史を繰り返している。世界中で治外法権を持つかのようにふるまうIOC幹部たちは、まるでSF映画の宇宙からの侵略者のようだ。
スポーツは例外
だが、IOCのこの体質は今に始まったことではないらしい。むしろ、オリンピックとはそもそもの始まりが、強権と特権の体質の産物だったと、長らくオリンピックの実態を調べて批判してきた研究者・アクティビストたちは解説する。
『オリンピックという名の虚構』でレンスキーは、巨額の利益を何よりも優先するIOC等を「オリンピック産業」と呼び、「スポーツ例外主義を取り込み、IOCが自称する『世界のスポーツの最高権威』という地位を築くことで、人体と心にダメージを与えるようなスポーツ実践を一世紀以上に渡って世界的に形作ってきた」。
まさに、日本に住む私たちは今、IOCによって体と心にダメージを与えられ続けている。
スポーツ例外主義とは、民主的な手続きだとか、女性の地位だとか、セクシュアルマイノリティー差別だとか、不正義に対する抗議の意思表示だとかを、「スポーツは政治に巻き込まれない」というレトリックで無視する進め方のことである。
白人男性の支配
だが、本当に政治的なのはIOCのほうだ。ボイコフの『オリンピック 反対する側の論理』によれば、第二次大戦前の不穏な一九三〇年代、IOCはファシズムと親和し、ベルリン五輪を開催し、東京五輪を決めた(結局、中止になるが)。戦後も、歴代の有力な会長は元ファシスト支持者たちで、強権統治への志向を隠さなかった。
ボイコフやレンスキーによれば、スポーツの清廉なイメージで不都合を覆い隠す「スポーツウォッシング」こそ、各国の政治が利用したがる五輪の効果だ。平和の祭典だとか平等の実現だとか掲げているが、あくまでも巨額の利益という目的の二の次であることは、今、パンデミックの最中に強行しようとするIOCの態度で明白だろう。主催側は「コロナで分断された世界を一つにする」と説明するが、嫌だという住民を無視して開催するという決定ほど、世界を分断する行為はない。
スポーツ政治が持つこれら負の側面の源を探れば、白人男性至上主義に行き着く。井谷聡子の『〈体育会系女子〉のポリティクス』は、「理想の男らしさの象徴的イメージと鍛えられたアスリートのような身体はある種の世俗的宗教のような形を取った近代の国民国家建設の重要な一面」だとして、その中で女子スポーツが体現する矛盾と変化を解き明かす。例えばなでしこジャパンの活躍は、女子選手の躍進ではなく、日本人の特徴が欧米を破ったと解釈される。
超強権で世界を分断していくのがIOCの五輪だとしたら、その分断する境界線が無根拠な虚構であることを暴いていくのが、井谷の胸のすくような明快な言説分析だろう。突破口はここにある。=朝日新聞2021年6月12日掲載