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「北に渡った言語学者」書評 激動の朝鮮 天才と家族の万感

評者: 藤原辰史 / 朝⽇新聞掲載:2021年09月18日
北に渡った言語学者 金壽卿1918−2000 著者:板垣 竜太 出版社:人文書院 ジャンル:伝記

ISBN: 9784409520871
発売⽇: 2021/07/29
サイズ: 20cm/374p

「北に渡った言語学者」 [著]板垣竜太

 北朝鮮の現代史、言語学の展開、そして朝鮮戦争。本書の柱であるどのテーマも、日本での関心は残念なことにそれほど強いわけではない。私も、本屋でこの本を手にする人はどれくらいいるだろうかと、正直思った。実際、読むのに骨が折れる箇所も少なくない。
 けれども本書には、この三重の壁を易々(やすやす)と越える語りの力が漲(みなぎ)っている。胸を搔(か)きむしられるような人びとの生き様が激動の朝鮮現代史とともに読者の心に迫る。少なくとも私は、次の展開が気になってなかなか本を閉じられず困った。
 金壽卿(キム・スギョン)。天才言語学者が主役だ。日本支配下朝鮮の京城帝国大学に進み、ソシュールの訳者である小林英夫の指導を受け、言語学を志す。朝鮮が解放される27歳までに、少なくともギリシャ語、ラテン語、サンスクリット、英独仏露伊西葡丁の各言語に、漢文、日中蒙満の言語を習得していた。小林は「彼の底知れぬ語学力に舌を巻く」と、敗戦後もずっと彼の才能を周囲に伝えていた。
 彼は、解放後に家族と北に渡り、金日成綜合大学で朝鮮言語学の研究に没頭する。だが、朝鮮戦争が勃発。彼は南へ派遣されるが、彼を探しに同じように南に向かった家族のことを知らぬまま、党の要請で北に戻る。その結果、家族は38度線で分断される。金は平壌で再婚し、妻の李南載は結婚した娘を頼ってトロントに住むことになった。
 金は、ソ連内の言語学の対立と金日成の思想の変化のはざまで独自の朝鮮語学を築き上げていくのだが、途中で左遷され二〇年間表舞台から消える。こうした学問と政治の息つまる綱引きも読みどころである。
 構成も凝っている。山場は第六章。著者はここで、金の妻や娘の聞き取り、手紙の内容をもとに、これまでの歴史叙述を女性たちの視線から語り直すのだ。哀(かな)しみ。恨み。弁解。諦め。喜び。この重ね塗りのごとき歴史叙述は圧巻だった。堪能いただきたい。
    ◇
いたがき・りゅうた 1972年生まれ。同志社大教授(朝鮮近現代社会史)。著書に『朝鮮近代の歴史民族誌』。