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移民・難民への無関心はどこからくるのか? クリスティーナ・カッターネオ『顔のない遭難者たち――地中海に沈む移民・難民の「尊厳」』

記事:晶文社

「『あの人たち』の権利を守り、『私たち』と『あの人たち』の死を同じように扱うことが、私たちの挑戦だった」クリスティーナ・カッターネオ著『顔のない遭難者たち』
「『あの人たち』の権利を守り、『私たち』と『あの人たち』の死を同じように扱うことが、私たちの挑戦だった」クリスティーナ・カッターネオ著『顔のない遭難者たち』

誰かの役に立つ法医学

 仕事や研究を愛する人間は、傍から見ると異常なまでの情熱を対象に注ぎこむ。

 この点にかんしては、法医学者、人類学者、昆虫学者、あるいは遺伝学者など、「犯罪捜査」の分野に身を置く者も例外ではない。すぐに頭に思い浮かぶのは、若い学生の途方もないエネルギーだ。一部の学生は、殺人事件の被害者の難しい検死のサポートに入ったり、地面の下から遺体を回収するための骨の折れる実地検証に立ち会ったりする際、有り余るほどのエネルギーを発散させる。たとえもう若くなくても情熱さえ失っていなければ、技術的な観点か、あるいは人道的な観点から見て新しい挑戦を前にしたとき、心のたかぶりを抑えるのは難しいはずだ。

 同じ話は、これから死体を解剖したり、ぐしゃぐしゃになった骨のなかに手を突っこんだりする専門家にも当てはまる。死や悲劇と向き合っているのに、興奮や熱狂を覚えているだなんて、いかにも不謹慎に思えるかもしれない。そういう意味では、私たち法医学者は、なかなか世間の理解を得るのが難しい存在である。

 未知の都市を発見するため、新たな発掘現場へ出発する考古学者や、患者の病状を好転させたり、命を救ったりするために手術を執りおこなう外科医であれば、自分たちの「情熱」をあからさまに示したところで、誰も奇異には感じないだろう。

 だが、「死者を切り刻むこと」を生業とする私たちとなると、いささか話が違ってくる。腐敗臭が充満する施術室に法医学者は何時間もこもりきりになる。臓器を解剖し、体液を集め、暴力行為の経過を解明したり、加害者の特定につながる兆候を探したりする。あるいは、死者に名前を取り戻させ、遺体を遺族に引き渡すことだけが目的のときもある。

 たしかに、患者の命を救う外科医とは違う。だが、用いる手法に違いはあれ、法医学者のすべての活動もまた、なんらかの形で「人助け」に寄与している。 

「あの人たち」と私たちの距離

 法医学者の「情熱」は、とくに大規模災害に直面したときに発揮される。

 大規模災害とは要するに、死者の数が多すぎて関係機関の対応が追いつかず、災害が起きた土地の制度が機能不全に陥るような状況を指す。

 容易に想像がつくだろうが、このような局面において法医学ができること、やるべきことは、山のように存在する。飛行機が墜落したり、列車が脱線したり、津波が島を襲ったりしたとき、法医学の業務に従事するため、専門家は文字どおり現場に急行する。

 とくに記憶に残っているのは、プーケットの津波災害だ。政府系と民間とを問わず、こうした状況に対応するための複数の機関のメーリングリストに登録していた私は、津波の発生から数日間にわたって、何百という専門家が密にメールのやりとりをする光景を目の当たりにした。多くの研究者は、被災地の援助のため、ただちに現場に出向く用意があることを表明していた。それは、ニューヨークのワールドトレードセンタービルが崩壊したときや、いくぶん規模は小さいものの、ミラノのリナーテ空港で衝突事故が起きたときに目にした光景とまったく同じだった〔訳注:二〇〇一年十月八日、ミラノのリナーテ空港で航空機同士の衝突事故が発生し、百人以上が犠牲になった〕。

 だからこそ、次の事実に気づいたとき、私はショックを受けずにいられなかった。

 アフリカや中東からの移民をいっぱいに乗せたボートが転覆し、多くの名もなき死者が埋葬されているというのに、世界の法医学コミュニティはまばたきひとつしていない。

 アイデンティティを欠いた遺体をそのまま放置しておくことがなにを意味するのか、じゅうぶんすぎるほど知っているはずの人たち、ほかのたくさんの災害に際しては、他人を押しのけてでも救助の手を差しのべようとした人たち、そんな「私の」コミュニティに属す誰ひとり、指一本動かそうとしなかった。 

 悲劇の地が遠ければ遠いほど心を動かされる度合いも少ない。

 そして、ここで言う「遠さ」とは、地理的な距離よりむしろ、文化的な距離を指すことが多い。だが、翻訳を介さずとも伝わる他者の悲嘆に、自分の手でじかに触れたとき、その距離が縮まることもまた事実である。

 じきにテレビや新聞は、人道上の危機に全力で対応するイタリアの姿を報じはじめた。

 海岸のそばの遭難者を助けるため海に飛びこんだ人びと、イタリア海軍や沿岸警備隊による救助活動、政府や国連が着手した一時収容の制度構築......生きて海を渡ることが叶わなかった移民はたいてい、しかるべき敬意をもって埋葬された。しかし、これらの遺体に名前を与える活動となると、報じるメディアはひとつもなく、実際に取り組もうとする者はどこにもいなかった。

 かかる状況下での遺体の同定には、さまざまな困難がともなう。専門家にとっては当たり前のこの事実を、一般の市民に広く理解してもらうのは、けっして簡単なことではない。なかには、あらゆる遺体はポケットに身分証明書が入った状態で発見され、ゆえに同定の問題そのものが存在しないと考えている人たちもいる。私や同僚からしてみれば、頭を抱えたくなるような誤解である。

 試みに、こんなシナリオを想定してみよう。イタリア人が乗客の過半を占める飛行機が、どこか別の大陸の沖合で墜落した。遺体は回収され埋葬されたが、それがどこの誰なのかという問題には誰ひとり取り合おうとしなかった。はたしてこれを、公正な対応として受け入れられるだろうか? いいや、受け入れられるはずがない。

 では、なぜ、死んだのが「あの外国人(移民)たち」である場合は、抵抗なく受け入れてしまうのか? なぜ、このような事態を放置したまま、なにも行動を起こさないのか?


 無関心の背景に、肌の色の違いがあることは否定できない。同様に、被害者の多くがコ ーランを読む民であり、私たちの知らない言語、もっと言えば、知りたいとも思わない言語の話者であることも、やはりいくらかは関係しているのだろう。 

 家族の死について確証を得たいという要求は、「あの人たち」にとってそれほど切迫したものではないという理屈が持ち出されることもある。「だって、文化が違うんだから......現実は複雑だし......その手のことにかかわりだしたら、泥沼にはまって抜けられなくなるよ」。

 私にこんなことを言ってきた同僚は、明らかに、なにかを試みようという気すらない様子だった。彼が言う「その手のこと」とは、移民の遺体を同定する試みを指す。

 私は当初、これはおなじみの人種差別の問題だ、共感(エンパシー)の欠如が原因なのだと、物事をわかりやすい図式に還元しようとしていた。だが、それはいくぶん純真な見方に過ぎず、問題はより広範におよんでいることもわかってきた。

 たんに経済的な観点のみならず技術上の観点からも、この災害への対応はきわめて困難だった。時間と空間の双方において、悲劇が起きた舞台が一箇所に限定されないことが、この大規模災害に対処するうえでの大きな障害となっていた。

(クリスティーナ・カッターネオ著『顔のない遭難者たち――地中海に沈む移民・難民の「尊厳」』第二章より抜粋)

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