京都は〈境〉のほうが面白い――京の坤(ひつじさる)境界としての桂川とその両岸(中西 宏次)
記事:明石書店
記事:明石書店
異質な地域が境を接する境界は、そこで多様な事物が交錯し、生々流転する興味深い空間である。周囲を山で囲まれている京都盆地でいえば、盆地底の平地から山地に移行する「坂」がその場所にあたる。
筆者はかつて『京都の坂――洛中と洛外の境界をめぐる』(明石書店・2016年10月刊)で、京都盆地周辺の四つの坂――清水坂・狐坂・長坂・逢坂を取り上げ、それぞれの坂の歴史と現在について記した。これらの坂は、京都と外部を結ぶ主要な交通路が、そこで文字通り坂道を形成していて、その付近で様々な境界的事象が展開してきたのである。
日本民俗学の祖・柳田國男によれば、坂は元々坂道(傾斜道路)だけではなく、「境」=境界一般を指す語だったという。その意味では、山がない京都盆地の南~南西部にも都市・京都とその外部との境界としての「坂」、この場合「平坦な坂」がある筈だ。それを画するのはどのラインかを考えると、嵐山で京都盆地に出て南東~南流する桂川が真っ先に思い浮かぶ。筆者は、桂川とその両岸を「京の坤(ひつじさる)境界」と名付け、この境界の歴史と現在を記した『京の坤境界――桂川が流れる〈平坦な坂〉をめぐる』を、2024年1月、前著に引き続き明石書店から刊行した。
京都盆地は、平安遷都以前から渡来人系の秦氏らの手によって開発されてきたが、なかでも桂川流域の「葛野(かどの)」と呼ばれる地が早くから拓かれていた。朝鮮半島から海を渡って来た渡来人たちは、おそらく瀬戸内海を経由して淀川沿いに内陸に入り、三川(桂川、宇治川、木津川)合流点を経て桂川を遡行してきたのであろう。
古代国郡里制(701年大宝律令)の山背(やましろ)の国葛野郡は、桂川両岸に跨っており、秦氏の人たちは桂川をさしたるバリアーとせずに両岸を行き来していたと推測される。この時期、桂川は両岸を「隔てる」という境界機能よりも、「結びつける」機能の方が優越していたと言ってよいであろう。彼らは現在の嵐山渡月橋の近くに井堰を築いて両岸を灌漑し、開発を進めた。その井堰・水路は、「一ノ井堰」「洛西用水」として今も現役で使われている。
古代末・中世には桂川沿いの地は主に皇・貴族の領地(荘園)となり、その地の農民たちは郷村(惣)を形成し、桂川から引水する井堰・用水路の設置などに関して他村との対立・抗争を繰り返した。しかし近世になると水利関係の調整がほぼ収束し、沿岸の村々は水害からの復旧、桂川の渡河(橋の設置、渡し舟の運航)などで協力関係を作っていった。
近代に入ると、河川改修に欧米伝来の高水工法が採り入れられ、洪水流を溢流させずにできるだけ早く流下させるという手法がとられるようになった。その結果、堤外の農地は水流を妨げるものとして、なくされていった。しかし、桂川の中・下流域の堤外には近世以降開発された多くの田畑(「流作地」)があり、農民たちが領主に陳情して耕作を認められていた歴史的経緯があるため、近代以降も営農が続けられた。
1997年河川法が改正され、従来の治・利水だけでなく「河川環境(水質、景観、生態系等)の整備と保全」が法の目的として明記された。これによって桂川堤外の農地は、この川の個性的な景観であり、都市近郊の緑地・親水空間としても位置付けられるようになった。そこには2021年に全線が開通した京奈和自転車道の最北部(終点は嵐山)が通っていて、市民のサイクリングやジョギング道として活用されている。
このように、桂川の坤境界としての内実は、時代とともに変遷してきたのである。
桂川の古くからの渡河点である久世橋地先の両岸に位置するのが吉祥院(左岸)と久世(右岸)である。これらの地域も、境界特有の歴史を刻んできた。都市の境界には被差別地域が立地することがあるが、両地ともに差別されていた集落がある。そこの歴史を紐解くと、両集落とも起源は中世に遡るが、近世初に京都と西国を結ぶ西国街道が整備された際、その京都への出入り口(桂川を挟んで)を扼する地として改めて位置付けられたことが分かる。
その地の住民は、差別を受忍しただけでなく、吉祥院(旧小嶋村)の場合は、地域の伝統芸能である六斎念仏の保存・継承活動を解放運動との繋がりの中で取り組んだ結果、現在では地域唯一の六斎念仏講を維持している。久世(旧舁揚村)では、同和対策事業としての地区の住環境改良と、隣接地の再開発の課題とを結び付けて運動し、広い範囲の再生・リニューアルが実現した。被差別地域住民の活動が、その内部だけでなく、周辺地域も合わせて活性化させることに繋がったと言える。
また、久世には近代初まで京都で精神を病んだ人たちが寄留する「大日堂」があり、癒しと再生の場になっていた。これは「境界」が「中心」の補完機能を担っていた事例とも言えるが、祇園祭の神輿渡御に際し、今も久世の綾戸國中神社から駒形稚児が出仕する件の歴史を調べると、「境界」は「中心」に従属するだけではなく、「中心」にとって不可欠な役割を担い、時には中心に働きかけてそのあり方を更新していく作用もしてきたことが分かる。
これらのことは、京都の中心からの目線ではなかなか見えてこない。境界に視点を置くことにより、ようやく都市・京都の全体像が見えてくるのではないかと、改めて思う。