「性や死を隠蔽した観光言説がなにをもたらすのか、考えて」
年間5千万人以上が訪れる京都市は、観光都市として世界的成功例だ。芸妓(げいこ)舞妓(まいこ)の「もてなし文化」など、イメージ作りのうまさが際立つが、一風変わった“観光ツアー”もある。京都大学人文科学研究所の高木博志教授の「ブラタカギ」は、学生や教職員をガイドする人気授業。「歴史は正も負も複眼的にみる必要がある。(テレビの)ブラタモリでは絶対紹介できない京都を歩きます」とは高木さんの前口上である。
この日は新京極から鴨川の河原に隣接する歌舞伎の南座、祇園をへて、豊国神社へと南下するコースだ。おしゃれな繁華街・新京極は、寺院が並ぶ寺町に隣接する。「寺とはかつて興行の場でもあった」と高木さんは言う。江戸時代の寺院境内の興行は、明治維新後、常設の興行地域に変貌(へんぼう)する。明治時代に歌舞伎や浄瑠璃や寄席、大正・昭和に映画館と、時代に応じた「見せ物小屋」が並んだ。
四条磧(がわら)を含め、あたりは中心部の上京・下京からみると端、周縁部にあたる。「中世から芸能はマージナル(周縁)な場にある。周縁は死や性や差別の場でもある」が本日のテーマだ。
鴨川東岸の祇園に入る。和服姿の外国人や若い女性が目立つ。祇園町南側は大正期以降に発展し、今日では「もてなしの文化」を象徴する。
しかし、明治時代には現在の祇園甲部歌舞練場の地には、梅毒を検査し患者を収容する駆黴(くばい)院があった。江戸時代から栄えた花街で、八坂神社に向かう祇園全体では、明治後期には約600人の芸妓、200人を超える娼妓(しょうぎ)もいた。
松原通りを東へ、六道の辻に向かう。清水寺へと続く辺りは「冥界の入り口」だった。中近世には葬送地に隣接し、ハンセン病者や下層の宗教者も住んだ。「ハンセン病者は差別もされたが、福をもたらす存在ともされた」
さらに南下し、豊臣秀吉を祀(まつ)った豊国神社に出る。明治維新で徳川幕府は否定され秀吉の顕彰が進んだ。現在「戦後最悪」と言われる日韓関係だが、韓国併合後の大正期も、朝鮮出兵まで称揚される世相だった。
朝鮮出兵の戦功として持ち帰った兵や民間人の耳や鼻を埋めた「耳塚」が、神社近くにある。高木さんは周囲をめぐらした玉垣を丹念に読み上げた。片岡仁左衛門、中村鴈治郎、川上音二郎……。名だたる役者が玉垣を寄進している。
一番目立つ石垣に刻まれたのが小畑岩次郎。大正時代の興行にもかかわった侠客(きょうかく)。小畑の音頭で、太閤記物を演じる芸人が寄進に応じた。闇営業に端を発した「吉本問題」が収まらないが、そもそも芸人と裏世界のつながりは歴史上は当たり前で、こうして可視化されてもいた。
ブラタカギが表の京都観光でスポットの当たらない地を歩くのはなぜか。
「負の歴史は観光資源にならないと思われている。しかし性や死を隠蔽(いんぺい)した観光言説がなにをもたらすのかを、考えてほしい」
歴史を自分の見たいようにみる。それを補強するだけなら、観光は不健康だ。頭で歩いて、足で考える。ブラタカギ流であった。(近藤康太郎)=朝日新聞2019年8月28日掲載