桃野の地元である京都は、パン、珈琲、牛肉の消費量が、かつて日本一だったらしい。言われてみれば、桃野もパン食が多い。珈琲には親しんでこなかったが、同郷の知人友人で嫌いだという人に出会ったことはないし、喫茶店もあちこちで見かける。牛肉にいたっては毎食でも食べたいぐらいだ。サシは少しでいい。赤身の方が好きだ。歳を取ったせいではない。昔からの好みだ。ホルモンも大好物である。
この調査結果を受けて、京都というイメージからは意外に感じると、ネットやテレビで話題になったことがある。当の京都人からすれば、なんら不思議ではなかった。
何故なら京都は、常に新しいものを受け入れてきた伝統があるからだ。
そもそも七九四年に遷都された際、風水に適う四神相応の地として今の京都が選ばれたたという説がある。当時風水は、中国からやって来た最先端科学だった。
都になれば、各地から様々なものが集まってくる。物珍しいものもきっと多かっただろう。流通の不便さから新鮮な食材は少なかっただろうが、それ故に新しい料理技術が開発されたりもした。
東寺さんの五重塔も、明治や大正の香りが残るレトロな建物も、建設時は最先端の建物だった。京都タワーや京都駅ビルもだ。
家庭用ゲーム機という新しい遊びに目を付け、日本に広めたのは任天堂だ。その任天堂は、スペック的な最先端ではなく、遊びをどう革新していくかという方法で、今なお新しい体験を提供し続けている。
このように京都には、「かつて最先端だったもの」「今現在最先端なもの」「世界中のあちこちからやって来たもの」で溢れかえっている。パン、珈琲、牛肉などに親しむのも、当然のことだ。
だが、京都人はわざわざこんなことを説明しない。こうして筆を執っている今も、語りすぎたかもしれないという後悔がある。何故か?
京都は長く都であったため、多くの地方勢に、入れ替わり立ち替わり占領された歴史がある。信長しかり秀吉しかり、京都にやって来るよそさんは占領軍だった。
すなわち、昨日まで偉そうにふんぞり返っていた連中が、今日には討ち滅ぼされるという光景を何度も目にしてきたということでもある。
だから京都人は、こう考えるようになった。
面従腹背で大人しくしていれば、そのうちよそさんは勝手に消える、と。
それに、昔から個人事業主の多い場所でもあった。西陣織の職人も、先の大戦である応仁の乱直後は、今で言うベンチャーに近いものがあったに違いない。となれば、まず真っ先に自分の足で立つことが求められる。言い訳は腹の足しにはならない。いちいちよそさんに構っている暇はなかった。結果、自然と符丁や暗黙の了解が増えた。
こういった理由が重なって、よそさんへ向けての説明を放棄するようになった。同時に、個人主義でありながらも京都人特有の連帯感が生まれることになる。京都人がイケズだと思われるようになったのは、その副作用だろう。勘違いであることは、ここまで読んでもらえて理解してもらえるはずだ。京都人は日本中から誤解されているのだ。
そんな中、京都に根付くよそさん達もいた。京都で暮らす以上、京都人を相手にしなければならない。自然と言動は似てくる。代を重ねれば、京都の流儀も自然と身についたはずだ。
こうして京都は、新旧はもちろん多種多様な文化を飲み込み、全てを己の一部としてしまう術を身につけた。
よそから来たものはよそへ帰って行く。帰らないものはやがて京都に染まっていくのである。
京都とは、たえず変化しながらも京都であることが揺るがなかった場所だ。
この気風が、桃野の性に合っていた。変化し続けながらも自分を見失わないところは、人生の指針になっている。思考の硬直と新しいものへの忌避感は衰退の兆候だ。
これからも京都はどんどん変化していくだろう。それでいて、京都らしさは決して失わないはずだ。むしろ、京都とはこうあるべしという決めつけこそ、京都を滅ぼしかねないと危惧している。
知らんけど。