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批評/批判の運命とアナーキーの諸問題――「『批評と生きること』『アナーキーのこと』をめぐって」(後編)──片岡大右×吉琛佳×前川真行

記事:晶文社

「批評/批判の運命とアナーキーの諸問題――『批評と生きること』『アナーキーのこと』をめぐって」告知ポスター
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グレーバーとアナキズム

 ここで問題は、本書の中でも大きな分量を占めるグレーバー論へとつながっていきます。そもそも、私が片岡さんと知りあったきっかけは、片岡さんが訳されたグレーバーの著作、『民主主義の非西洋起源について』(以文社、2020年)との出会いにあります。私は上海のオルタナティヴ・スペースの「定海橋互助社」に関わるなかで東京・高円寺の「素人の乱」を運営する松本哉さんと知り合い、『世界マヌケ反乱の手引書』(筑摩書房、2016年、のちちくま文庫、2024年)という本を中国語訳して、これはかなり中国でも読まれました。そうしたなか、片岡さんの訳を通して『民主主義の非西洋起源について』を読み、対等な対話によってコンセンサスを形成するという意味でのデモクラシーは別に西洋に由来するものではなく、世界中のどこででも――たとえば互助社や高円寺、そして吉田寮のようなローカル・コミュニティで――実践されているものなのだというその主張に深く共鳴して、この本にもっと早く出会っていればと思いましたし、より多くのひとに伝えたいと考えて中国語訳を手掛けたのです。

デヴィッド・グレーバー『民主主義の非西洋起源について――「あいだ」の空間の民主主義』片岡大右訳、以文社、2020年
デヴィッド・グレーバー『民主主義の非西洋起源について――「あいだ」の空間の民主主義』片岡大右訳、以文社、2020年

 さて、片岡さんによるデヴィッド・グレーバー著作の解説は、きわめて丁寧かつ周到です。特にグレーバーの著作そのものにとどまらず、彼がX(旧ツイッター)上で発した多くの言葉、さらには彼を取り巻く仲間たちや、立場を異にする論者たちとの議論までを総合的に検討しています。これらの考察を通して、私はこの早逝した秀逸な人類学者の姿をより多面的に理解できましたし、私のなかのグレーバー像はより立体的なものになったと感じています。

 これら一連のグレーバー論の中で、片岡さんは一つの一貫した論点を提示しています。それは、グレーバーが「アナキスト人類学者」というラベルを拒否し、むしろ常に意識的に異なる見解や立場を持つ人々と柔軟に対話し、協力したということです。この論点は、グレーバーをめぐる議論の中でしばしば問題となる、「グレーバーが中後期に転向したか」問題と関連しています。たとえば、政治哲学者のクリスピン・サートウェルは2024年初頭の文章What Happened to David Graeber?の中で、グレーバーは亡くなる前に自身のアナキズム的立場を修正し、より自由主義寄りに傾いたと指摘しています。

 しかし、片岡さんの分析が説得力をもって示しているように、グレーバーが立場を根本的に変えたと考えるのは難しく、むしろ彼は一貫して政治的により柔軟で自由な態度を採っていたと理解すべきだと思います。それでは、この「立場の自由」を具体的にどのように理解すべきでしょうか。

 私の理解では、グレーバーは自分の研究に関しては、いかなる価値中立の可能性を想定したこともなかった。実際、彼の文章には、理性的かつ客観的・中立的であろうとする偽りの試みに対する皮肉が見られます。彼は偏りのない中立的立場を維持しようとするのではなく、自らの価値立場を明確に示した上で分析を展開していたように思います。

 ところが、グレーバーは他者に対しては非常に開かれた知的態度を示していました。こうした態度はアナキズムに由来するものだと考えられるのですが、それがグレーバーの主張に包摂性と多様性を与え、彼を従来とは異なるタイプの知識人として位置づけることになったのです。このような可能性について、グレーバーは『アナーキスト人類学のための断章』(高祖岩三郎訳、以文社、2006年)のなかで次のように述べています。「ラディカルな知識人の明確な任務とは、別様の生き方や実践を創出している人々を観察し、それらの実践がどのようにすればより大きな影響力をもちうるかを理解しようと試みることである。そして、それらの考えを処方箋としてではなく、貢献や可能性、すなわち贈与として持ち帰ることにある。〔…〕社会理論は本来、民主的な過程において重要な役割を果たせるはずである。」言い換えれば、グレーバーの知的プログラムは、特定の方向性や既定の立場に対する弁護ではなく、現実における多様な実践を理解し、拡散させるものでした。知識人はそのなかで、真理の解説者ではなく、特定の社会集団によるアイデンティティ・ポリティクスの代弁者でもなく、諸実践のあいだの相互理解と交流を媒介する存在として機能するのです。

デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』高祖岩三郎訳、以文社、2006年
デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』高祖岩三郎訳、以文社、2006年

 ここで言えるのは、グレーバーはまさに、開かれた態度に基づき、新しいタイプの知識人を確立しようとしていたということです。社会学者ジグムント・バウマンはかつて、2種類の異なる知識人のタイプを定義しました(『立法者と解釈者』向山恭一ほか訳、昭和堂、1995年)。啓蒙時代以降に現れた「立法者(legislator)」は、社会の共通知や方向性を確立することに尽力する。一方、ポストモダンの状況で現れた「解釈者(interpreter)」は、「他者」の声を代弁し、周縁的存在またはマイノリティの存在状況を社会全体に伝える役割を果たしてきた。しかしバウマンにおいても、立法者と解釈者の後に来る知識人の姿は依然として不明瞭なままです。私の考えでは、グレーバーが提唱したような、仲介者としての知識人のあり方こそ、まさに現代の知的状況にふさわしい知識人の姿だと言えるのではないでしょうか。それは、現在の高度に分断化し孤立的になった社会の中で知の実践を展開する理想的な形態であるように思うのです。

 それでは、このような仲介者として、贈与的な役割を担う知識人は、どのような展望を実現しうるのでしょうか。仲介者は、立法者のように社会全体に普遍的な理念を確立しようとはせず、また解釈者のように多元的社会の中で個々の存在の特殊性を弁護しようともしていません。両者とは異なり、仲介者としての知識人は、各地の個別的実践に自律性があることを認めつつも、そうした個々の実践はいずれも、他の実践にとって参照可能な価値を持ちうるのだと信じています。なぜなら、人々は根底的なレベルにおいて、多くの共通的な局面に直面せざるをえないからです。この点は、片岡さんの著作の中で触れられている、グレーバーによるエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロへの反論ともつながる論点です。ヴィヴェイロス・デ・カストロの本質的差異に基づく多自然主義とは異なり、グレーバーの理論的底流には、多数の存在の間に通底する共通性への信念が存在していると言えます。

『鬼滅の刃』に現れた2つのエンパシー

会場風景(吉琛佳さん)
会場風景(吉琛佳さん)

 しかしそうすると、こうした異なるものの共存は、どのようにして支配者がいない状態で成立しうるのだろうか、という問題が出てきます。ここで関わってくるのが、本書で『鬼滅の刃』の評論を契機に展開される、エンパシーの両義性の問題です。これはとてもおもしろい評論で、私自身は『鬼滅の刃』は途中までしか見ていなかったんですが、これを読んでからその後の展開を追ってみて、なるほど現代の問題に深く関わる物語だなと改めて感じました。

 エンパシーは存在者のあいだで共通の絆を形成する出発点となります。しかしこの評論ではブレイディみかこ氏の議論を参照しつつ、2つのタイプのエンパシーの存在を主張しています。炭治郎型のエンパシーは、鬼への同情を示すところもあるのですけれども、主には仲間(特に妹)への愛情に基づき、共同体の絆を築くことに重点を置きます。しかし、このような、共通の生活感覚や暗黙知に基づくエンパシーは、排他的な原理にもなりえます。たとえば、空気を読まなければ理解できない雰囲気の中では、必要とされる暗黙知を持たないため、それができない人々は排斥されてしまうわけです。

 しかし、もう一つの別のタイプのエンパシーは、未知の「他者」に対して開かれたものです。たとえ相手を仮想的に敵対者として想定しても、相手の置かれた状況から理解・把握しようと手を差し伸べるようなエンパシーです。片岡さんは、『鬼滅の刃』の中で、姉が鬼に殺されたにもかかわらず、姉の遺志を継ぎ、人間と鬼が平和に共存できる世界を創ろうとする胡蝶しのぶを、このタイプの代表例として取り上げています。これは変化と包摂に開かれたエンパシーであると言えます。

 では、この2種類のエンパシーの差異はどこに生じるのでしょうか。これはブレイディみかこさんの著作(『他者の靴を履く――アナーキック・エンパシーのすすめ』文藝春秋、2021年、のち文春文庫、2024年)でも論じられており、その違いは、単に感性的な「共感」にとどまるものか、それとも他者の存在状況を自分の中で再現し、理解する能力に基づくものか、という点にあるのかもしれません。「他の存在状況を知りたい」という知的欲求から生まれるエンパシーは、異なる他者の存在を許容することができるのです。この論点はグレーバー論ともつながっています。グレーバーが知識人の役割として想定したのは、異なる実践の間に共通性を見出し、他の実践に開かれた実践者となることであって、それはまた、ブレイディさんが著作のなかで示そうとした「外して、広げろ」という意味合いのエンパシーにも通じます。ブレイディさんが言うように、このようなエンパシーの能力は、多様性を互いに認め合えるような社会へとつながることが可能なのではないでしょうか。

 実際、このように他者に開かれたエンパシーの意味を示す作品は、ある時期にいくつか現れていたと考えられます。たとえば、『鬼滅の刃』とほぼ同じ時期(共に2016~2020年)に『週刊少年ジャンプ』で連載していた『約束のネバーランド』では、主人公たちが自分たちが「鬼」に飼育された「食料」であることに気づいたにもかかわらず、孤児院から脱出した後、鬼と平和に共存する可能性を模索する姿が描かれています。他者を受け入れる可能性の探求を通じて、多文化共生や包容的態度の形成に向けた試みが示されています。しかし、今年以来の排外主義の台頭を見ても分かるように、現実の世界ではこのようなエンパシーは十分に実を結んでいないと言わざるをえないでしょう。

「天下」理論とディアスポラ

 最後に、これは私自身の存在状況と言いますか、留学生として日本にやって来て、ある種のディアスポラの一員として関心を持っていたテーマなのですけれども、「雑種文化」と「天下」理論に関わる問題について簡単に触れておきます。片岡さんがこの問題に言及しているのは、東アジア社会が直面している現実の状況を鋭敏に反映しているように思われます。現在の状況は、もはや国家や文明を単位として考えることでは把握できず、ますます越境的な関係性のなかで展開しているわけです。

 『批評と生きること』第4部に収められている「アジアの複数性をめぐる問い」のなかでは、加藤周一の「雑種文化」論、そして趙汀陽や許紀霖の「天下」理論が論じられている。この部分も読んでいてとてもおもしろく、たしかに両者はいずれも同じく多様性に関する議論であり、ある意味では、非西洋的な多元共存秩序の創造を説いたものだとは言えます。しかし「天下」理論の射程には収まらないものもあると以前から思っておりまして、その点を少し展開しておきたいということです。

 趙汀陽の「天下」理論は、多元共存秩序に関する非西洋的な理論的構築を目指すものです。『恵此中国』(原著2016年、未邦訳)という著作によれば、「天下」概念に見られる多元一体の想像は、先秦以来、各部族が繰り広げてきた、主に華北平原によって構成される中央地区=「中原」の支配権をめぐる相互競争に由来します。これがいわゆる「逐鹿中原」のモデルです。さらに趙汀陽は、諸勢力が中心を巡る争奪に巻き込まれるこうした中華文明の形成原理を「渦巻きモデル(漩渦模式)」と呼んでいます。

 このように、複数の勢力が中央(中原)をめぐって争奪を繰り広げ、まるで渦のように中心に巻き込まれていく過程の中で、多元一体の天下秩序が徐々に形成されていきました。趙汀陽の見解では、これこそが「天下観」という中国的普遍主義を構成する要素だということです。この意味での多元性は、常にある特定の単一な支配モデルのもとで成立していると考えられます。柄谷行人の言葉を借りれば、これは一種の「帝国的構造」とみなすことができるでしょう。柄谷によると、帝国と帝国主義とは異なり、特定の価値観を支配下の諸民族に押し付けることはなく、一定程度の自治性が保たれていると考えられるのです。

ジェームズ・C・スコット『ゾミア――脱国家の世界史』佐藤仁監訳、みすず書房、2013年
ジェームズ・C・スコット『ゾミア――脱国家の世界史』佐藤仁監訳、みすず書房、2013年

 しかし、このような帝国の秩序は常に、ある種の血みどろの戦争や競争の中で成立するものです。この過程では、渦の「中心」に君臨して勝利した支配者集団がいる一方で、体系の外部に弾き出され、逃亡者となる集団も必ず存在します。彼らは競争に敗れたか、あるいはそもそもこのような紛争への参加を望まず、戦乱を避けるために政治活動の中心から距離を置くのです。たとえば、ジェームズ・C・スコットの『ゾミア』(佐藤仁監訳、みすず書房、2013年)では、平地に広がる漢人王朝を避けるために自ら山中へ逃れ、支配者の介入を阻む平等主義的原理を実践する、こうした逃亡者集団が描かれています。

 中国の歴史において、このように「渦」によって中心から弾き出された集団の出現は繰り返し確認できます。たとえば、陶淵明が描いた、深山の中に逃れた桃花源(桃源郷)の人々です。それは虚構であるものの、その描写が反映する社会的心性は現実的であり、王朝支配から逃れたいという普遍的な願望を示しています。また、戦乱を逃れて中原から南方に移住した客家人の存在や、近代以降の華人ディアスポラ・コミュニティなども同様の例です。これらの事例を考えると、「天下理論」で注目された向心力によって形成される秩序とは異なり、離心力、すなわち「逃避」に基づいて形成される、天下とは異なるエスニック文化を検討することもできるのではないでしょうか。そしてそうであるなら、現在日本で非常に活発に形成されつつある華人ディアスポラ・コミュニティは、日本の「雑種文化」とどのように相互作用していくのでしょうか。これらは、非常に現実的な課題であり、今後さらに議論を深める価値と必要性のあるテーマではないかと思います。

アナキズムは産業化する社会のなかで生まれた

会場風景(前川真行さん)
会場風景(前川真行さん)

前川 ありがとうございます。「グランド・セオリーの不在」ということで大澤真幸さんの名前が出てきました。たしかに、かつては社会学の全国学会で大澤さんが身体についてカントロヴィチを引用しながら、あるいはまた富永茂樹がカントの『啓蒙とは何か』について、フーコーとはまた別の見地から語る、というような時代があったのですけれども、今、社会学という分野では、こうした引用の仕方はなかなか難しくなっているようにはみえます。かつてのやり方には行き過ぎたところもあったにせよ、今日では逆に適切な理論の不在に、少なからぬ社会学者が困難を感じている状況がある。歴史的にもくり返されてきたことですが。そうしたなかで、まさにディアスポラ的にと言うか、かつて大澤さんが考えたようなことが流れ流れて全然違うところで芽を出すのかもしれない、そんな感想を抱きました。

 さて、最後に私がお話しすることになっているのですが、吉さんが『批評と生きること』について主に語ってくださったので、私はむしろ『アナーキーのこと』を中心に、議論の提供をしてみたいと思います。私が最初にアナキズムに関心を持ったのは、京大人文研の共同研究(「進化論と社会」)でクロポトキンについて調べたことがきっかけです。なんどか発表もしました。そこからアナキズムについても調べるようになったという経緯です。それが20代の終りのことですから、ずいぶん長い付き合いになります。

 まずは私がよく取り上げる大阪出身の詩人、小野十三郎から始めることにします。小野は上京してアナキズム詩の運動に関わり、当初はまあ、勇ましい詩を書いていたのですが、日本のアナキズム運動が大杉栄の死後に解体するなか、大阪に帰ることになる。そこで彼は、総力戦のために急速に軍事工場や部品工場ができていく大阪の、風景の変貌を目の当たりにします。柄谷行人なども強調するように、現実の政治運動が壊れた後に文学に目を向けるというのはしばしば起こることですが、そうして小野は大阪の風景、しかも工場の風景にも目を向けるわけです。アナキズムというものは、小野が見たような産業化していく社会のなかで生まれた思想あるいは運動のひとつと言うことができる。それはつまり、ヨーロッパにおいては19世紀の産物です。そこからもう一度、アナキズムについて考えなおしてみるとよいのではないか。

アナルコ・ファシズムは可能か

前川 『アナーキーのこと』では、息子の政治学者フランシスによってアナキズムの6つの分類が提示されています。最初がアナルコ・コミュニズムで、次がアナルコ・サンディカリズム、これは組合主義ですね。職能集団のような小集団が連合し、誰もヘゲモニーを握らないかたちでネットワークを作る。この2つは最もクラシックなアナキズムと言えるでしょう。他に何があるのかというと、蜂起主義、現代のブラック・ブロックのようなものですね。それから個人主義的アナキズムですが、これは蜂起主義にも通じるところがあって、あえて挑発的に振る舞う。メディア的傾向のアプローチだと言えるかもしれません。残る2つはアナルカ・フェミニズム、アナルコ・エコロジー。後者にはさらに3つの下位区分(プリミティヴィズム、ディープ・エコロジー、リバタリアン自治主義)があると言われています。ありとあらゆるものがある。

 それでは、ここには出てきませんが、アナルコ・ファシズムは不可能なのでしょうか。これは可能だろうと思います。アナルコ・キャピタリズムというのは実際、言葉として存在しているわけですけれども、アナルコ・ファシズムについて言うと、「アクシオン・フランセーズ」のシャルル・モーラスなどを想起することができます。片岡さんはよくご存じでしょうが、元はオック語の復興をはじめとしたプロヴァンスの文芸復興運動から出てきた文学者ですね。小野十三郎たちも、運動と称して何をしていたかというと、ほとんど詩しか書いていないわけです。小野は大学中退とはいえ一応インテリですが、労働者もけっこういて、なぜかやたらと詩を書く。今日における評論の代替物でしょう。その一方、過激な行動を取る人たちがいて、銀行強盗もしますし、ついには内ゲバ殺人にも手を染め(黒色共産党事件)、そうしたなかで運動は解体していく。これは先ほどの蜂起主義の不幸な延長線上にあるといえるでしょう。まるで戦後の全共闘運動を予告しているかのようです。

シャルル・モーラス
シャルル・モーラス

アナキズムをめぐる両義性と緊張

前川 『アナーキーのこと』の最後のほうでは、19世紀のアナキストには、「20世紀はアナキストの世紀になる」と予告する者さえあったという話が出てきます。こうした自然主義的アナキズムは楽天的にすぎたのかもしれない、息子であるフランシスはそう言います。しかしこの本の少し先を読みますと、19世紀のクラシカルなアナキストが熱望していたものは、全部とは言わないけれども、かなりの部分が実現しているとも言われている。男女共学、児童労働の廃止、女性参政権、長期の有給休暇、疾病休暇、公的保険、思想と表現の自由、などです。たとえばもしも19世紀の女性アナキストが現代に現れたなら、彼女は「これってアナーキーじゃないか!」と叫ぶのではないか、と。すると、私たちの世紀はすでにアナキズムの世紀なのではないか。アナキズムはすでに成功したのではないか。私たちは多様な形態をとったアナキズムのなかで生きているのではないか。

 この問いについて考えるには、そもそもアナキストとは誰かという点が問題になってきます。『アナーキーのこと』の対話を読むと、息子フランシスの立場は、何か特定の権威に反対するにとどまらず、あらゆる権威の土台をなす原理そのものに反対し、明確にアナキズムを志向する人たちだけがアナキストだ、というものであるようです。しかし彼はその一方、ラディカル・フェミニストやエコロジスト、共和主義者や自由主義者など、非アナキストの運動のなかにすら、アナキズム的要素を見出すことができるんだ、とも言っている。父トマはというと、「われわれはみんな、人生の流れのなかでずっと、『少し』アナキストなんだよ」などと発言しています。自然な人間本性からして、われわれは権威から逃れたいと思うものなんだ、というのですね。

ピョートル・クロポトキン
ピョートル・クロポトキン

 こうした発想は、ミリュー(環境)としての、自然としてのアナキズムに向かうものだと言えます。クロポトキン自身、基本的に自然主義的な立場を取っていました。父トマはこう言っています。「わたしの理解が正しければ、われわれは全面的にアナーキー的な世界に生きているということかな。」またこの本の最後では、これも父トマですが、「自由、平等、相互扶助、公正を合言葉にする社会」を目指すのがアナキズムだという、まあかなりクラシカルな理解が提示されて、「アナーキーとは調和による秩序である」というルイーズ・ミシェルの定義が引用される。クロポトキンも結局は調和を打ち出すわけで、ここにあるのは自然主義に裏打ちされた、こう言ってよければかなり18世紀的なアナキズム観ということになります。

 ただしこうした自然主義的理解からはみ出る部分もある。ひとつは、殺してはいけないという話。これは父トマが徴兵によるアルジェリア戦争への加担を拒んでカナダに移住したという経緯と関わっています。それからまた、これは息子フランソワのほうですが、アナキズムは支配をもたらすシステム全体の解体という原理のもとに行動し、ラディカルな批判を行うものなんだ、という主張がなされている。父トマはそれを受けて、そうだった、「穏健なアナキズム」というのは存在しないわけだ、と応じる。

 ここにもアナキズムに、避けがたいかたちではらまれた両義性があると思います。一方には、自然主義的理解に基づく調和的ユートピアがあり、他方には、その実現のためには穏健な政策だけでは、つまり改良主義では届かないのだといった主張がある。福祉国家に至る流れのなかで社会福祉や学校が整備されようとも、一種の反国家主義の立場から、それはフーコーも言っているように監獄のようなもので、規律権力が働く場であり、人間を飼い馴らし飼育する場にすぎないんだという話になる。フランシスは基本的にこうした立場を受け入れていますが、それはあきらかに自由主義的なものです。

 じつは、この点はアナキズムもマルクス主義も同じ立場を共有しているんですが、こうした批判を手放せない。一方では福祉国家の成果を見て「これってアナーキーじゃないか!」と語り、他方ではそれを一種の監獄にすぎないとして拒絶するという両義的態度ですね。クラシカルな自然主義的アナキズムに向かうか、ブラック・ブロックのような、いわばロマン主義的方向に行くかという一種の分裂あるいは緊張があって、みんなそこで悩んでいるのだけれども、この『アナーキーのこと』を読んでも、それに対する答えは出てこない。こうした緊張を解消できないまま、あるいはしないまま、私たちが経験し引き受けざるをえない現実としてアナキズムを提示しているように読める。ここにもカタルシスはありません。

ドイツ、ハンブルクのデモにおけるブラック・ブロック ‟Rote Flora” - schwarzer Block ©Florian Bausch (2011)/CC BY-SA 2.0
ドイツ、ハンブルクのデモにおけるブラック・ブロック ‟Rote Flora” - schwarzer Block ©Florian Bausch (2011)/CC BY-SA 2.0

アナキズムと行政法

前川 どうしてこうなっているのか。この問いに対するわたしの見方としては、結局アナキズムは19世紀の思想そのものだからだ、ということになります。アナキズムとは、19世紀がもたらした人類史的変化に対するひとつの応答だろうと。ここで問題となる人類史的変化とは、産業化です。すなわち、自然環境に対する物理的な改変であり、そうして新たな自然、新たな環境をつくってしまうこの産業のプロセスが、人間のあり方を根本的に変えてしまう。

 それに対する人間の側からのリアクションは当然出てくるわけで、それが行政というものです。行政は、最初は「ポリス」と呼ばれたものですが、17世紀から18世紀にかけて成立し、19世紀になると行政国家というかたちで急速に拡大していく。この行政ないし行政国家に対するさらなるリアクションとして2つの動きが現れるのですけれども、アナキズムがそのひとつであり、これは自らを「自然」の側に位置づけながら、行政国家に対抗する。アナキズムは行政の作用、すなわち統治を自ら行うものです。つまり集団的な自己統治を構成していく運動がアナキズムだ、ということになります。同じころ、やはり進む工業化と都市化のもとでコミュニティ・デヴェロップメントの運動をはじめたソール・アリンスキーは、「私たちが私たちを統治する」という標語にまとめます。グローバルな現象にたいして、グローバルに進められた抵抗運動がそこにはあったというべきでしょう。

 しかし行政国家へのリアクションは、批判と抵抗の運動としてのアナキズムだけではありません。行政法もまた、固有の運動を通して行政国家に対応するものです。ここでは特に、19世紀後半から20世紀初頭に活躍したフランスの公法学者、レオン・デュギーの理論を紹介しましょう。片岡さんがご紹介くださったカステルの書物でも取り上げられています。彼は現に進行しているプロセスとして公共サービスの拡大を指摘しているのですが、ここで公共、パブリックというのは、国家の、ということではありません。イギリスのパブリック・スクールなどを考えればわかるように、公共の担い手は国家に限らない。民間企業を含めた公共サービスを全国に拡大していくなかで分権化を推進し、国家主権を解体していく。デュギーの理論からすると、国家は分散した公共サービスの総体にすぎないものとなり、主権概念はもはや過去の遺物なのです。

 公共サービスは、20世紀には国有化のプロセスを通じて福祉国家に組み込まれますが、1990年代以降にいわゆる「新自由主義」の展開のなかで民営化の流れが生じ、19世紀に近いかたちに戻ってきている。国家が様々な場面に手を出す一方、民間企業が電気をつくり、道路をつくり、上下水道運営に関与し、それに国家が一定の規制を加えるというような状況のなかでは、公共といっても単純に国家のものだとは考えられない。こうした動きには、ネオリベラル的でもあれば、第3の道的でもある、分権化による主権の解体というデュギーの理論を思わせるものがあります。

レオン・デュギー Portrait photographique de Léon Duguit ©Auteur inconnu - Archives/CC BY-SA 4.0
レオン・デュギー Portrait photographique de Léon Duguit ©Auteur inconnu - Archives/CC BY-SA 4.0

カクエイ、アナキスト

前川 アナキズムも行政も、様々に成立した公共サービスも、ひとつの同じ自然史的過程の異なる側面である。そうした観点からアナキズムの歴史を読みなおすことができるのではないでしょうか。そうすると、自由主義または新自由主義、すなわち資本主義と、福祉国家なりアナキズムなりがどこまで異質で、対立するものなのかはわからなくなってきます。それらは多少とも、同じプロセスを共有しているのかもしれないわけです。ですからたとえば、「これはアナキズムではなくてリベラリズムにすぎない」といった議論はまったく不毛だと思います。自由主義、リベラリズムというのは、分類すると12種類あるとか16種類あるとか言われている。その一方でアナキズムにも6種類あり、さらにそこから漏れるアナキズム的なものもあるだろうというときに、両者を恣意的に区別するなどというのは、これはもう定義による証明にしかならないだろうと思います。それが意味のある議論なのか、疑問です。

 このように考えるなら、たとえば田中角栄をアナキストと呼んでもよいのではないか。そう思って書いた未発表原稿が、本シンポジウムの参考資料としてお配りした「カクエイ、アナキスト」です。アナキストたちがやろうとした地方分権化とネットワーク化は、田中角栄が『日本列島改造論』と新全国総合開発計画でやったのだし、しかも中央政府は地方をコントロールできず、各地方は全然バラバラに、自分たちの気に入るように開発を進めていった。これをアナーキーと言わずに何と言うのか。まあそうしたわけで、ちょっとした挑発として、「ケインズ的なアナキスト」としての田中角栄という切り口から文章を書いてみました。つまりそれは共産党、そしてとりわけ社会党から維新まで、私たちすべてが引き受けざるをえない条件だったのではないですか、と。

田中角栄©首相官邸ホームページ/CC BY-SA 4.0
田中角栄©首相官邸ホームページ/CC BY-SA 4.0

 ミシェル・フーコーは1977年から79年にかけての2つの「統治性講義」(『安全・領土・人口』『生政治の誕生』)のなかで、17世紀・18世紀に胚胎し19世紀に展開した行政国家の拡大を再検討し、どうすれば違う言語で考えることができるのかを模索した。こうした行政の問題のうちに、われわれはアナキズムの裏面を見ることができるかもしれない。あるいはアナキズムのほうが裏面だと言うべきかもしれませんけれども、とにかくそうしたかたちでアナキズムを捉えなおしていくのがよいだろうと考えています。

グレーバーのおもしろさ

片岡 お2人とも、ほんとうにありがとうございました。まず吉さんのご報告ですが、批評/批判をめぐる私の論点を非常に的確に汲み取っていただき感謝に堪えません。天使の比喩をめぐる奥井氏と大澤氏のやり取りを紹介してくださいましたけれども、これは実に意義深い議論であると思いました。

 それからグレーバー論について。彼が公共知識人として知名度を高めたあと、当初のラディカルなアナキストとしての姿勢から一種の転向を遂げたのではないかといったことは、たしかにしばしば指摘されることであるわけです。吉さんがご紹介くださった論考も、そうした転向を惜しむ、といった論調ですね。しかし私も吉さんと同様、グレーバーのうちに思想的一貫性を認める立場です。

 ここで想起されるのは、政治学者の宇野重規さんのグレーバーをめぐる見解です。宇野さんは『民主主義の非西洋起源について』の書評を朝日新聞に書いてくださったんですが、これはグレーバーの問題提起をおおむね好意的に評価しつつも、宇野さんとしては乗れない部分もはっきり示していた。その点も含め非常に見事な書評です。ただその後、2022年秋に日仏会館で開催された民主主義をめぐる討論会でご一緒することがあり、私はグレーバーの遺著『万物の黎明』(D・ウェングロウとの共著、酒井隆史訳、光文社、2023年)における「分裂生成」抑制の必要性をめぐる議論を取り上げたのですが、これは宇野さんにも評判がよかった。2024年1月に単向街書店銀座店で行われた『批評と生きること』の刊行記念イベントに出てくださった際には、自分は統治を重視する政治学者としてアナキズムには距離を取ってきたが、『万物の黎明』の趣旨には賛同するし、アナキズム全般についても以前よりは理解できるようになってきた、といったことをおっしゃっていました。

単向街書店・東京銀座店のイベント「#Asian Talk 036 批判は今日においてどのような意義を持っているか――アジアとヨーロッパの視点から」(片岡大右・宇野重規・劉争)ポスター
単向街書店・東京銀座店のイベント「#Asian Talk 036 批判は今日においてどのような意義を持っているか――アジアとヨーロッパの視点から」(片岡大右・宇野重規・劉争)ポスター

 同じ2024年の秋の社会思想史学会大会では重田園江さんの司会のもと、宇野さんをパネラーのひとりとする「政治学者が読むグレーバー」と題するセッションが設けられ、その記録が『現代思想』2025年3月号に載っていますけれども、これを見ると、初期著作『民主主義の非西洋起源について』ではいかにもアナキズム的な反国家的主張が強すぎ、それよりも『万物の黎明』のほうが共感できる、といった見方を示されている。だから宇野さんの場合はサートウェルとは逆に、後期のグレーバーは自由主義的になってきたからよい、という評価になっているわけです。

 私自身、初期にはアナキズム的原理により忠実だった、くらいには考えていますが、それでも私としては、最初からずっと、ある種の柔軟性を保っていた点では一貫性を見ることができる、という見方をしています。そうでなければ、マルセル・モースのような社会民主主義的傾向の思想家のうちにアナキズム的要素を見出すといった主張はしなかったでしょうからね。いずれにせよ、グレーバーのおもしろさはとりわけ国家をめぐる両義性にあると私は考えていて、ここは前川さんのアナキズム理解にもつながる論点だと思います。

 さて、吉さんはエンパシーの主題に関連して、『鬼滅の刃』の竈門炭治郎と胡蝶しのぶのうちにそれぞれエンパシーの別の側面を見て取ることができる、という私の主張を取り上げてくださいました。炭治郎の場合、どんなに個々の鬼の背景を理解しても鬼は鬼だから殺す、という割り切り方をしているのに対して、胡蝶しのぶのほうは、鬼に姉を殺されていながら、まさにその姉の遺志を継いで、鬼との共存を展望しようとする。しかしそうはいっても現実に出会う鬼たちは禍々しいばかりなので、心は強度の緊張によって引き裂かれている、そういう人物です。『約束のネバーランド』について言うと、たしかにエマは鬼との共存を目指すのですが、しかし鬼は人間を食べざるをえないので、最終的には人間と鬼は完全に分離された世界で暮らすことになります。ですから、真に他者に開かれたエンパシーといっても、心がボロボロになったり相互的な隔離が結論になったり、なかなか難しいということを、これらの作品は表しているとも言える。

 最後に、「天下」理論の求心的原理から漏れてしまうような動きに目を向けるべきだというのはその通りだと思います。そのうえで言うと、本来のユダヤ人ディアスポラの場合、伝統的にはユダヤ教を堅持しながら各地で独自の共同体を維持してきたわけですし、イスラエル建国後はこの「ユダヤ国家」との関りを多少とも持つということがある。アフリカン・ディアスポラであれ中国人のディアスポラであれ、移住先の「メルティング・ポット」に完全に溶け込んでしまうのでなければ、出身地域の文化・社会・政治と様々な関りを維持することになるわけで、そこのところを個別に見ていく必要があるだろうと思います。

アナキズムはふつうの思想たりうるか

会場風景(片岡大右さん)
会場風景(片岡大右さん)

片岡 次に前川さんのご報告について。前川さんのアナキズムへのご関心は、十数年前の『社会的なもののために』(市野川容孝行・宇城輝人編、ナカニシヤ出版、2013年)――これはこのテーマをめぐるきわめて貴重な討議の記録ですけれども――にもうかがえるところですが、20代から継続的に取り組まれてきたテーマであるとのことで、今回改めて議論していただけたのは幸いです。アナキズムと自由主義の通底性というか、両者を明確に腑分けしても意味がないというお話だったのですけれども、これはいわばアナキズムが保ってきた例外性や周縁性、黒というシンボルカラーに表れているような不穏さを問いなおすということかもしれず、たしかに挑発的、論争的ですが、重要な問題提起だと思います。アナキズムはふつうの思想たりうるか、ということですね。

「カクエイ、アナキスト」は実におもしろいテキストです。クロポトキンを含めたアナキズムのなかのテクノロジー志向が取り上げられていますが、これはわたしもグレーバーに即して強調してきたところです。グレーバーはマレイ・ブクチン『ポスト希少性のアナキズム』(原著1971年、日本語版は『現代アメリカアナキズム革命』鰐淵壮吾訳、ROTA社、1972年)という本がお気に入りだった。これは科学技術の飛躍的発展による物質的欠乏の解決を想定し、その先に開かれる自由を展望する書物です。最近のアナキズムの流行のなかにこういう側面がまったく見られないのは気がかりなところで、というのは、こうした発想を手放してしまうと、テクノロジーを活かした未来を展望するのは保守派ばかり、ということになってしまいかねないからですね。

 アナキズムと非アナキズムの関係という問題に戻ると、昨年、フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーの『泥棒!――アナキズムと哲学』という本の日本語訳が出ました(伊藤潤一郎ほか訳、青土社、2024年)。マラブーはそこで、哲学者たちがプルードンにおける意味の刷新以後の地平で様々にアナーキーを論じていながらも、プルードンやクロポトキンといったアナキストを参照しその伝統に連なることは拒んできた点に注目しています。哲学者たちは泥棒だ、というわけですね。今ここで詳細に立ち入ることはできませんけれども――自覚的に選ばれた立場である「目覚めとしてのアナキズム」とアナルコ・キャピタリズム的な「事実としてのアナキズム」の共存というその視点を前川さんの視点と比較するのは意義深いことでしょうが――、では誰もがアナキストを名乗るべきなのかということを含め、アナキズムとそれ以外の諸思想の関係をめぐる議論は、今後も続けられていくだろうと思います。

 ともあれ、私の『批評と生きること』は2年ほど前に出た本なのですけれども、最近出した翻訳書『アナーキーのこと』ともどもこうして取り上げていただいたことに改めて感謝申し上げます。吉さんも前川さんもきわめて充実した報告をしてくださって、ここからさらに討議を交わしたいところですが、今日はここまでとして、今後の機会に委ねることといたしましょう。

左から、前川真行さん、片岡大右さん、吉琛佳さん
左から、前川真行さん、片岡大右さん、吉琛佳さん

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