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「原爆歌人」正田篠枝は、なぜ命をかけて歌集を世に出したのか——『復刻版 耳鳴り』(電子書籍)より

記事:平凡社

広島原爆病院前にて。1958年8月撮影(『復刻版 耳鳴り 原爆歌人の手記』より)
広島原爆病院前にて。1958年8月撮影(『復刻版 耳鳴り 原爆歌人の手記』より)

『復刻版 耳鳴り 原爆歌人の手記』(正田篠枝著)。2026年5月、平凡社より電子書籍として刊行
『復刻版 耳鳴り 原爆歌人の手記』(正田篠枝著)。2026年5月、平凡社より電子書籍として刊行

太き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの 骨あつまれり

ピカッ ドン 一瞬の寂 目をあけば 修羅場と化して 凄惨のうめき

奥さん奥さんと 頼り来れる 全身火傷や 肉赤く 柘榴と裂けし人体

正田篠枝『耳鳴り 原爆歌人の手記』

 2025年8月6日、広島への原爆投下から80年となる広島市の平和記念公園で行われた式典で、当時首相だった石破茂氏は、「原爆歌人」として知られる正田篠枝の短歌を引用しました(上掲の三首のうち、冒頭の一首)。

 広島県で生まれ育った正田は、34歳のとき、広島市の自宅で原爆投下によって被爆しました。その後、54歳で死没するまで、原爆の悲惨さを伝える短歌を詠み続けます。

 石破氏が引用した一首は、広島市の平和記念公園にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた代表歌です。終戦まもない混乱期に刊行した原爆歌集『さんげ』に収録されています。

 『さんげ』刊行当時、正田やその家族は占領下でのGHQの検閲を恐れ、私家版としての出版に踏み切りました。印刷を引き受ける印刷所がなかったため、広島刑務所で印刷されたという逸話も残っています。

 正田はなぜ、そこまでの覚悟をもって原爆の悲惨さを詠み続け、世に問うたのでしょうか。『さんげ』も再録され、集大成の歌集といえる『耳鳴り 原爆歌人の手記』には、その想いが綴られた手記が収録されています。以下、抜粋します。

死の街

 空襲で、一晩中一睡もできなかった、八月六日の朝、ようやく警戒警報解除で、やれ、やれ、と思っておりますとき、ピカッと、蒼白の光りでありました。

 午前八時十五分のことであります。

 父は前夜疎開先きへ眠りに行き、朝一番電車で帰って来て、家の裏門からはいり、座敷に上がった、とたんのことでありました。一瞬真暗くなり、天地の雑音が、ピタリッと停止しました。気付いて見ると、ピアノは倒れ、あたりはコッパミジンで、足の踏み場もない、惨憺たる、シュラ場でありました。

 事務員は、出勤の途中で、こんな目にあいましたと、ぼろをぶらさげたような、ヤケドで皮膚が、ぷらさがった腕を見せました。救急箱の薬のありったけを、ぬってやるやら、次から次と、大変であります。薬が全部無くなって、気付いてみると、私の肩の傷から、血が吹きでています。父はカッターを引きさいて血を止めようと、結んでくれました。

 その時真黒い雨が降って来ました。

 そばの川岸に、家の業務用の船が、つないでありました。雇人や、近所の人達が多勢で乗込んで、避難いたしました。御幸橋の、橋下を船が通ると、怪我人が多勢、ぞろぞろと、ぼろが動くように、川へ降りてくるのでありました。「広島の市中の、あっちこっち、火の手があがって焼けているよっ」と、つぶやく声が、聞こえます。

 私は時期でもありませんのに、大出血が始まり、困っておりますと、避難船の機械が故障して、動かなくなったと言って、上陸することになりました。父は私を、職長さんに背負わせて、雁木もない、岩間をよじ登るようにして、海から上がってみますと、宮島沿線の、海沿いの観光道路でありました。

 えんえんと長蛇のような、負傷者の列であります。黒焦げの人間を、ウズと積み上げたトラックが、山口方面さして、通り過ぎます。井ノ口の電停の側の、藤棚の下が、急設治療所になっていました。私は傷口を、縫って貰いました。うめき声をたてて、死にかけている人が側におります。ようやく宮島口丘の疎開先きへ、たどりつきました。次から次と多勢頼って来られます。それぞれが、見たこと、会ったこと、聞かしてくれます。

絵・吉岡一(『復刻版 耳鳴り 原爆歌人の手記』第二章 地獄の広島――歌集「さんげ」より)
絵・吉岡一(『復刻版 耳鳴り 原爆歌人の手記』第二章 地獄の広島――歌集「さんげ」より)

 この頃、私達は、広島へ投下された爆弾には毒ガスが含まれていたということを、聞かされました。毒ガスは、如何なる戦争にも使っちゃあ、いけないんじゃあなかったんですかっ、と、それなのに、アメリカは非道いと思いました。それにこの爆弾は特別の毒ガスで一ヵ月以内には、死ぬるとか、草も木もみんな枯れて七十年は人間も、動物も住めないという噂がとんでいました。怖れおののきながら、次から次と死んで逝かれるので、すべての人が、それを信ぜずにおれなくなりました。

 原子爆弾という名前を知らされました。このために即死され、またあとから亡くなられたひとを、とむらうつもり、生き残って歎き悲しみ、苦しんでいる人を、慰めるつもりで歌集『さんげ』 を作りました。

 その当時はGHQの検閲が厳しく、見つかりましたなら、必ず死刑になるといわれました。死刑になってもよいという決心で、身内の者が止めるのに、やむにやまれぬ気持で、秘密出版をいたしました。

 無我夢中で、ひそかに泣いている人に、ひとりひとり差し上げさせていただきました。

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