「原爆歌人」正田篠枝は、なぜ命をかけて歌集を世に出したのか——『復刻版 耳鳴り』(電子書籍)より
記事:平凡社
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太き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの 骨あつまれり
ピカッ ドン 一瞬の寂 目をあけば 修羅場と化して 凄惨のうめき
奥さん奥さんと 頼り来れる 全身火傷や 肉赤く 柘榴と裂けし人体
正田篠枝『耳鳴り 原爆歌人の手記』
2025年8月6日、広島への原爆投下から80年となる広島市の平和記念公園で行われた式典で、当時首相だった石破茂氏は、「原爆歌人」として知られる正田篠枝の短歌を引用しました(上掲の三首のうち、冒頭の一首)。
広島県で生まれ育った正田は、34歳のとき、広島市の自宅で原爆投下によって被爆しました。その後、54歳で死没するまで、原爆の悲惨さを伝える短歌を詠み続けます。
石破氏が引用した一首は、広島市の平和記念公園にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた代表歌です。終戦まもない混乱期に刊行した原爆歌集『さんげ』に収録されています。
『さんげ』刊行当時、正田やその家族は占領下でのGHQの検閲を恐れ、私家版としての出版に踏み切りました。印刷を引き受ける印刷所がなかったため、広島刑務所で印刷されたという逸話も残っています。
正田はなぜ、そこまでの覚悟をもって原爆の悲惨さを詠み続け、世に問うたのでしょうか。『さんげ』も再録され、集大成の歌集といえる『耳鳴り 原爆歌人の手記』には、その想いが綴られた手記が収録されています。以下、抜粋します。
空襲で、一晩中一睡もできなかった、八月六日の朝、ようやく警戒警報解除で、やれ、やれ、と思っておりますとき、ピカッと、蒼白の光りでありました。
午前八時十五分のことであります。
父は前夜疎開先きへ眠りに行き、朝一番電車で帰って来て、家の裏門からはいり、座敷に上がった、とたんのことでありました。一瞬真暗くなり、天地の雑音が、ピタリッと停止しました。気付いて見ると、ピアノは倒れ、あたりはコッパミジンで、足の踏み場もない、惨憺たる、シュラ場でありました。
事務員は、出勤の途中で、こんな目にあいましたと、ぼろをぶらさげたような、ヤケドで皮膚が、ぷらさがった腕を見せました。救急箱の薬のありったけを、ぬってやるやら、次から次と、大変であります。薬が全部無くなって、気付いてみると、私の肩の傷から、血が吹きでています。父はカッターを引きさいて血を止めようと、結んでくれました。
その時真黒い雨が降って来ました。
そばの川岸に、家の業務用の船が、つないでありました。雇人や、近所の人達が多勢で乗込んで、避難いたしました。御幸橋の、橋下を船が通ると、怪我人が多勢、ぞろぞろと、ぼろが動くように、川へ降りてくるのでありました。「広島の市中の、あっちこっち、火の手があがって焼けているよっ」と、つぶやく声が、聞こえます。
私は時期でもありませんのに、大出血が始まり、困っておりますと、避難船の機械が故障して、動かなくなったと言って、上陸することになりました。父は私を、職長さんに背負わせて、雁木もない、岩間をよじ登るようにして、海から上がってみますと、宮島沿線の、海沿いの観光道路でありました。
えんえんと長蛇のような、負傷者の列であります。黒焦げの人間を、ウズと積み上げたトラックが、山口方面さして、通り過ぎます。井ノ口の電停の側の、藤棚の下が、急設治療所になっていました。私は傷口を、縫って貰いました。うめき声をたてて、死にかけている人が側におります。ようやく宮島口丘の疎開先きへ、たどりつきました。次から次と多勢頼って来られます。それぞれが、見たこと、会ったこと、聞かしてくれます。
この頃、私達は、広島へ投下された爆弾には毒ガスが含まれていたということを、聞かされました。毒ガスは、如何なる戦争にも使っちゃあ、いけないんじゃあなかったんですかっ、と、それなのに、アメリカは非道いと思いました。それにこの爆弾は特別の毒ガスで一ヵ月以内には、死ぬるとか、草も木もみんな枯れて七十年は人間も、動物も住めないという噂がとんでいました。怖れおののきながら、次から次と死んで逝かれるので、すべての人が、それを信ぜずにおれなくなりました。
原子爆弾という名前を知らされました。このために即死され、またあとから亡くなられたひとを、とむらうつもり、生き残って歎き悲しみ、苦しんでいる人を、慰めるつもりで歌集『さんげ』 を作りました。
その当時はGHQの検閲が厳しく、見つかりましたなら、必ず死刑になるといわれました。死刑になってもよいという決心で、身内の者が止めるのに、やむにやまれぬ気持で、秘密出版をいたしました。
無我夢中で、ひそかに泣いている人に、ひとりひとり差し上げさせていただきました。