「のほほんとしていたら、生き残れませんよ」という今の風潮にうながされ、自分たちは「打ち勝つ力をもつ能動的な存在」と思えるよう訓練されてしまっている。新自由主義は、1980年代のサッチャリズムに代表される規制緩和政策として注目されるようになったが、気づけば、「熾烈(しれつ)な競争」によって個々の人間が弱肉強食のルールに従わされる社会になっていた。
傷ついたとしても、生物の自然回復力に頼ればいい。この社会がいかに傷であふれているかを熟知しているトラウマ研究の第一人者、宮地尚子は本書において、最近よくいわれるこのような人間の回復力、つまり「レジリエンス」に過剰な期待が寄せられることに警鐘をならしている。戦争で負ったトラウマ、性暴力、DV、誹謗(ひぼう)中傷によってできた深い心の傷。こういった目に見えない傷だって「かさぶたがすぐ剝がれる傷」と同じように、生乾きの状態でさらされつづけているのだ。本書は、人間の傷つきやすさ、ヴァルネラビリティの問題が決して個々人の力でなんとかなるものではないと語りかけてくる。
たとえば、攻撃されても傷つかないように「鎧(よろい)」を何重にもまとう姿はかえって痛々しい。「溺れそう」になって「必死で手足をばたつかせ」ている人間の弱さ、そして想像力をかき立てる文学・映画の物語に惹起(じゃっき)される生々しい身体イメージが、読者の中に浸透して自己像を少しずつ変えていってくれる。
医師で社会的強者かもしれない宮地自身でさえ、いや、強者だからこそ、どれだけ過剰防衛をおこなっても、人間も生物も「ヴァルネラビリティから逃れられはしない」ことを知っている。傷口は乾かない、痛みもおさまらない。そう認めてもいいんだと「包帯」のようなことばで包んでくれる愛の書だ。
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ちくま文庫・792円。22年9月刊、15刷6万3600部。担当編集者は「定評あるエッセー集に1章加えた著者初の文庫。臨床経験をふまえ、選び抜かれた深い言葉が届いているのでは」。読者は20~30代女性など若い世代が多いという。=朝日新聞2025年5月2日掲載
