九州宮崎の椎葉村(しいばそん)は平家の落人伝説が残る、それは山深い村だ。面積はものすごく広いが平地はほんのわずか、かけ値なしに不便なところだと言ってもお叱りは受けないだろうと思う。
その椎葉村を独りで前触れもなしに訪ねたのは、かれこれ何年前のことになるだろう。少し前、その時の取材をもとに書いた小説が映画化されることになって、おそらくもう二度と行くこともないだろうと思っていた椎葉村を再び訪ねる機会に恵まれた。
落人伝説が残るだけあって、自給自足に近い生活が長かった村なのに違いない。平地が少ないということは、それだけ耕地面積も少ないということだろうが、場所によっては見事な棚田の風景が広がっている。山の幸は豊富に採れるし、もともと水のいい土地だから、村の名物ともなっている「菜豆腐」などは、季節の花が豆腐の中に混ぜ込まれていて目にも美しく、豆の味もしっかりしていて実に美味(おい)しい。イノシシの味噌(みそ)漬け、干し野菜、漬物などの保存食も多く、また蜂蜜や柚子胡椒(ゆずこしょう)も絶品だ。
その村で、ある青年と知り合った。そして彼に、特に美味しい湧き水が飲めるという場所に連れていってもらった。村中至る所で、山道の途中からちょろちょろと水が流れ出しているところは珍しくないのだが、その水は特に美味しいのだという。
実際に飲んでみて、なるほど、これこそ甘露というのだろうと思った。
「これで焼酎割ったら、最高ですね」
「少し持って帰りますか」
旅の仲間と口々に言っていると、青年が「そんなら」と、自分が乗ってきた軽ワゴン車の扉を開けた。
「つまみに、少し持っていきますか」
そこには、一杯に詰め込まれた椎茸(しいたけ)のケースが並んでいた。ついさっき収穫してきたばかりなのだという。
旅人はいつだってわがままで、しかも遠慮知らずだ。そういう親切には、すぐに甘える。私たちは喜び勇んで、採れたて椎茸をたっぷりいただいて宿に戻った。
その晩、椎茸のバターソテーと網焼きとが食卓に加えられた。
「何これっ」
「椎茸って、こんな味?」
かぶりついた椎茸の、肉厚で柔らかくて水分があって、香り豊かな上に美味しいことといったら、まるでステーキでも食べている錯覚に陥りそうだった。収穫したての味とは、こんなにも違うものなのかという驚きと感動は、そのまま衝撃ともなる。
所詮(しょせん)、都会で少しばかり格好をつけていたって、要するにどんな食べ物でも、産地で出来たてをいただくのにはかなわないのだ。だからこそ、旅の楽しみも増えようというものなのだが。=朝日新聞2018年03月31日掲載
編集部一押し!
- カバンの隅には 公衆電話の前で 澤田瞳子 澤田瞳子
-
- 杉江松恋「日出る処のニューヒット」 10代の幸せな読書体験が蘇ってくる! 野崎まど「小説」(第21回) 杉江松恋
-
- 朝宮運河のホラーワールド渉猟 きさらぎ駅、くねくね……新しい時代の怖い話を追いかけて 廣田龍平さん「ネット怪談の民俗学」インタビュー 朝宮運河
- インタビュー いしわたり淳治さん「言葉にできない想いは本当にあるのか2」インタビュー 言葉をうまく操ることができたら悩みも減るはず 宮崎敬太
- インタビュー 富安陽子さんの人気シリーズ「シノダ!」 山と町、異界と人間界 はざまで生まれる日常と地続きのファンタジー 大和田佳世
- オーディオブック、もっと楽しむ 上白石萌音さん「いろいろ」オーディオブック版インタビュー 20代前半の自分に再会した「酸っぱさ」 岩本恵美
- イベント 「今村翔吾×山崎怜奈の言って聞かせて」公開収録に、「ツミデミック」一穂ミチさんが登場! 現代小説×歴史小説 2人の直木賞作家が見たパンデミックとは PR by 光文社
- インタビュー 寺地はるなさん「雫」インタビュー 中学の同級生4人の30年間を書いて見つけた「大人って自由」 PR by NHK出版
- トピック 【直筆サイン入り】待望のシリーズ第2巻「誰が勇者を殺したか 預言の章」好書好日メルマガ読者5名様にプレゼント PR by KADOKAWA
- 結城真一郎さん「難問の多い料理店」インタビュー ゴーストレストランで探偵業、「ひょっとしたら本当にあるかも」 PR by 集英社
- インタビュー 読みきかせで注意すべき著作権のポイントは? 絵本作家の上野与志さんインタビュー PR by 文字・活字文化推進機構
- インタビュー 崖っぷちボクサーの「狂気の挑戦」を切り取った9カ月 「一八〇秒の熱量」山本草介さん×米澤重隆さん対談 PR by 双葉社