子供の頃、私たち姉妹をとても可愛がってくれた一家があった。父の仕事でかかわりのある家で、材木を商う老舗だったように記憶している。
大学を出て数年の、家業を継ぐことが決まっていたお兄さんと、短大と高校に通っているお姉さんたちがいた。
アメリカから入ってきて大阪は難波(なんば)にお店が開かれたばかりのドーナツも、アイスクリームのクリスマスケーキも、その一家が私たち姉妹へのプレゼントとして届けてくれたものだ。
あの頃、ドーナツと言えば母が台所で揚げてくれるおやつで、油がぴちぴちと跳ねる音や小麦粉が膨らんで狐(きつね)色に変わるさま、香ばしい匂いも大好きだったけれど、色砂糖をまとったそれは胸が躍るほどカラフルだった。まして炬燵(こたつ)と火鉢が並んだ居間で、冷たいアイスケーキを食べる贅沢(ぜいたく)さときたら。私と妹は大いにはしゃぎ、父は少々、得意気(とくいげ)だった。
今から思えば、当時の日本は高度経済成長期の只中(ただなか)にあった。
材木商の兄妹はたびたび「遊びにおいで」と招いてくれ、泊(とま)りがけでもお世話になった。古い門構えの家で、広い製材所を裏に擁していた。松や杉の匂いが母屋の隅々に沁(し)みていて、年季の入った薄暗がりがそこかしこに潜んでいる。他人の家なのに、私は妹の手を引いて、ずんずんと探検した。
中庭に架けられた渡り廊下を進むと普請したばかりの小体(こてい)な別棟があり、そこはモダンな造りになっていた。トランプをしたり黒光りするピアノを触らせてもらって、私はこましゃくれた小学生だったけれども、天真爛漫(らんまん)な妹は赤い頰をして笑い転げていた。
たぶん上のお姉さんだと思うが、ちょうど料理教室に通っている最中だったらしく、夕餉(ゆうげ)の用意も手伝わせてくれた。子供にとって、料理は恰好(かっこう)の遊びである。お菜を作り終え、かき玉汁を用意する時、お姉さんが不思議なことをした。菜箸で溶いた卵にほんの一滴、酢を入れたのだ。
「こうしたら綺麗(きれい)に仕上がるんよ」
あの頃から五十年ほど経った今も、私はその方法を続けている。
科学的なことはわからないが、酢の作用で蛋白(たんぱく)質が凝固し過ぎないのだろう。その一滴はごく微量で、垂らすというよりも「差す」感覚に近い。
お吸い物の中の玉子色は艶々(つやつや)と細い帯状にたゆたい、舌触りも格段になめらかになる。餡(あん)かけうどんや雑炊の溶き卵にも、私は一滴を差す。
そしていつも昭和という時代の、私の周りに確かにあった灯のごとき温(ぬく)もりを想(おも)うのだ。=朝日新聞2017年10月07日掲載
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