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ギャンブル誌フィーバー

名編集長・慶徳康雄氏が育てたマンガ誌「漫画パチスロパニック7」と姉妹誌

 海外と比べた日本のマンガ事情の特徴として、質量ともに多種多様なマンガ雑誌の存在が挙げられる。月刊誌や週刊誌だけでなく、増刊や特別号といった不定期刊行も含めると、現在でも100タイトル以上が発行されている。そのすべてを手にすることはほぼ不可能で、大型書店や専門店でしかお目にかかれないようなマイナーな雑誌も少なくない。
 ところが、全国各地に普通に置かれているのに、多くの人には「見えない」マンガ雑誌もある。コンビニの入り口に面した雑誌の棚の奥あたり、成人誌コーナーの付近に並んでいるパチンコ、パチスロ、マージャンといった「ギャンブルマンガ雑誌」がそうだ。
 ギャンブルとは縁遠い人がそこに掲載されたマンガを読んでも、大半はわからない。ゆえに一般的には視野に入りづらくマニアックなジャンルになってしまうのだが、別格の雑誌がある。白夜書房「パニック7」(現在の発行元はガイドワークス)シリーズの3誌である。

 攻略だけじゃない「パニック7」別格

 最初の「漫画パチスロパニック7」が創刊されたのは1998年のこと。その後、2000年に「別冊パチスロパニック7」、02年に「パニック7ゴールド」が続く。他誌も合わせると、2000年代半ばにはパチスロマンガ雑誌が20近くも発行されていた。ブームの火付け役であり、今なお牽引(けんいん)役である「パニック7」は、ピーク時の06年ごろには3誌の合計発行部数が毎月100万部に迫る勢いだった。
 これは、二つの意味で驚くべき数字である。一つは単純に、ギャンブルマンガ、それもパチスロ専門のマンガ雑誌がこれほど読まれてきたという事実だ。マンガ読者とスロッター(パチスロ愛好者)の層が数十万人の単位で重なっているわけで、海外では到底考えられない。「クールジャパン」どころか「ワンダージャパン」と呼ぶにふさわしい現象である。
 もう一つは、「パニック7」が勢いを増していた時期は、マンガ雑誌市場が全体的には冷え込んでいたころだった点である。1995年ごろをピークに、国内の雑誌の発行部数と販売金額は現在まで一貫して右肩下がりである。つまりマンガ雑誌が構造的な不況に陥っている中でも、「パニック7」は売り上げを伸ばしていたのだ。

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 では、なぜ「パニック7」はそれほど売れたのか。詳しく説明する紙幅はないが、その立役者はまちがいなく、創刊時の編集長・慶徳(けいとく)康雄氏である。パチスロ台の攻略情報が重視される媒体でありながら、マンガそのものの面白さに徹底的にこだわった。スロットの実戦マンガでは真剣勝負を大事にし、決して予定調和の演出に頼らなかった。
 また、マンガ家やライターたちの個性を引き出すべく、雑誌連載から多彩な単行本を派生させ、キャラクターグッズ、実戦の模様を収録したDVDなどを企画。作者と交流できる読者の集いや、ライターとマンガ家による架空のラジオ番組のCDプレゼントなど、実験的で遊び心満載のメディアミックスも展開し続けた。マンガ雑誌の枠を超えたその編集手腕は、作り手と読み手との間に新しくも深い信頼関係を築いた。
 その慶徳氏が今月4日に急逝した。享年51歳。平成マンガ史に刻むべき名編集長の足跡をここに抄録するとともに、深刻な不況が続くマンガ業界にとって大きく、早過ぎる損失を惜しむばかりである。合掌。=朝日新聞2018年3月30日