「グラフィックノベル」というアメリカ生まれの言葉を耳にされたことはおありだろうか。世界の多様なコミックス作品の中でも、高い物語性や芸術性を志向し、成熟した読者を対象としたものを指す名称だ。
近年、海外コミックス作品の邦訳をめぐって、この「グラフィックノベル」という言葉を目にする機会が増えている。その背景には、日本のマンガ市場における海外作品の位置付けや存在感の変化がある。1990年代後半以降、日本のマンガ読者は、雑誌の連載作品群をシーンとして共有する「目配り」型から、個人の趣味嗜好(しこう)に基づいて作品=単行本を手に取る「掘り下げ」型へと推移してきた。
関心掘り下げ型へ ネットで資金集め出版も
こうした中、大衆向けマンガ雑誌中心の時代には触れる機会がなかった「グラフィックノベル」的な海外作品が、関心を持ちそうな読者のもとへ届くチャンスが生まれてきた。
たとえばこれまで主に人文書を扱ってきた花伝社はここ数年、グラフィックノベルの邦訳を手掛けるようになった。ドイツの移民問題を描く「マッドジャーマンズ」、リビア・シリア・フランスの三国にわたる作者の自伝「未来のアラブ人」、中国系アメリカ人2世のアイデンティティーを扱う「アメリカン・ボーン・チャイニーズ」などだ。出版社のカラーとも合致する、いわば社会派の作品は、新たなレーベルとして存在感を示しつつある。
もうひとつ目立つのが、クラウドファンディングによる邦訳出版だ。日本軍の「慰安婦」だった韓国人女性の人生を描く「草 日本軍『慰安婦』のリビング・ヒストリー」はその一例だ。
サウザンブックス社はシリア難民の悲劇を叙情的に切り取ってみせた「ZENOBIA」をクラウドファンディングで刊行した。その後、海外コミックス専門レーベル「サウザンコミックス」を設立。海外作品の翻訳を数多く手掛けてきた原正人氏を編集主幹として、世界の様々な作品をクラウドファンディングという方法で関心ある人々の手に届けることをめざしている。
レーベル第1弾として企画した、ギリシャ民衆音楽の演奏家たちの刹那(せつな)的な生き方を描く「レベティコ 雑草の歌」は、インターネットやイベントを通じて海外作品ファン以外にも関心を広げ、昨年10月の刊行へとこぎつけた。
続く第2弾としてウェブ上でプロジェクトが進行中の「テイキング・ターンズ HIV/エイズケア371病棟の物語」は、90年代後半のアメリカを舞台に、看護師だった作者のケア病棟での経験や記憶に残る患者たちの姿を描いた回想録だ。一般的な「アメコミ」のイメージとは大きく違う飾らない絵で、医療従事者として難病患者へと向き合う悩みや無力感がつづられる。率直な語りへと対面で耳を傾けているかのような本作の読後感は他に得難い。これもまた、コロナ禍を背景として、従来とは違う読者層に記憶に残る一冊となりそうな作品だ。
これまでのマンガ産業とは違う道を拓(ひら)く、こうした「グラフィックノベル」をめぐる刊行事情。そのありようが日本のマンガ文化へと今後どのように影響していくか、そしてなによりどんな作品が今後紹介されていくか、興味は尽きないところだ。=朝日新聞2021年2月16日掲載