「文字小説」と出版元は言い、「文字ファンタジー」と作者は言う。小説は文字でつづられるが、文字を小説のテーマにすると見たことのない本になった。円城塔さんの『文字渦(もじか)』(新潮社)は古代、漢字の起こりから未来、文字のあの世まで12編。時に光り、時に動き、語り出す文字。日本語の海にダイブして、とことんたわむれる連作短編集だ。
表題作は昨年、川端康成文学賞を受賞した。始皇帝の陵墓から未知の漢字を記した竹簡が発見される。その3万字すべてが「人」の形を含んでいる。物語は2千年さかのぼり、陶工が大量の兵馬俑(へいばよう)を区別するために独自の文字を作ろうとする。彼は皇帝に呼び出される。名は●(えい、羸の「羊」の部分が「女」)。皇帝像を作れと命じた●は、羸、◎(羸の「羊」の部分が「虫」)、と姿を変え、陶工はその正体をとらえられない。
驚くことにこれらの漢字はすべて存在する。「ユニコードになくても、大漢和辞典にあります」。文字の規格であるユニコードをまとめた本をめくりながら「グリフウィキ」「超漢字検索」といった検索サイトを歩き回ったそうだ。
希少言語を求めて世界を旅する「わたし」が文字同士を闘わせる遊技に参加する「闘字」の後では、見慣れない漢字が虫のように見えてくる。「源氏物語」の「御法(みのり)」を写す機械が筆写に思い入れるあまり涙を流して筆を乱す「梅枝」は物語性が豊か。文字が図形のように空に浮かぶ「天書」や、ルビが本文を横取りしていく「誤字」は、この紹介文ですら意味不明だろう。わからなくてもいいですか。「自分でも何を書いているかわからないことがよくあります」
『これはペンです』(新潮文庫)や『道化師の蝶(ちょう)』(芥川賞受賞作、講談社文庫)など、文字や言語に思いを巡らす作品が多い。文字へのこだわりは「人並みに」とかわすが、「小学生の頃、自分で文字を作ったりするじゃないですか」と続けるところは相当な文字好きだ。ひらがなを記号にしたり、自分しか読めない漢字で暗号を作ったり。「書いてみるけど自分にも読めなくなる。自分で文字を作ることに失敗して、なぜだめなんだろう、なぜ、と思うんです」
12編に流れる「正しさ」への問い
2015年の『プロローグ』(文春文庫)は文字コードを思考する長編で、今作は文字コードを具体的に扱うステップアップ、とも言う。「文字を見て思ったことを書いている。ユニコードに縛られず、変な漢字を小説に入れたらどうなるか」という実験だそう。
同じ頃「雨月物語」の現代語訳(『日本文学全集11巻』、河出書房新社)を担当したことも文字への思いを強くした。「江戸期の和本が読めないことに衝撃を受けました」。漢字でつづった『古事記』『万葉集』から、かなを使った『土佐日記』で漢字かな交じりへ。「先祖が書いていたものが読めないと昔の人はぼやいていたけど、まさに自分もそう。そういう文字に対する危機感、読めなくなるというハラハラ感がなくなってませんか」
タイトルは中島敦の『文字禍』を一文字変えて。長すぎるルビのために禁則処理は複雑極まり、使う漢字も難解すぎて編集者に伝えるためにスクリーンショットを送った。「紙の本にしかできないことを」という思いは結実しているが、「電子書籍でどこまで表示できるか。たぶんコントロールできません」。予想外の出来事も含めて、文字は渦巻く。
「▲(「予」を逆さにした字)」の文字が池から突き出す「幻字」は、登場する人物が文字だ。あの名作もこの人の手にかかると「殺字事件」になる。
冗談めいた語りにふいに、多く残された文字が正しいのか、正しさに固執することはない、と本質的な問いが挿入される。12の短編にはどれも「正しさ」への疑問が流れている。「学校教育でとめろ、はねろ、気にしなくていいと言ってきましたが、そもそも草書と行書では書き順から違う」。堅苦しさが気になる。
「漢字って変ですよ。多すぎるし、いくつあるのかわからないなんて。漢字仮名交じりだっておかしい。漢字を開いても閉じてもいい、気持ち次第。句読点の打ち方もルビの振り方もルールはない。変なの、と思います。書記体系がおかしいでしょう」。変でしょ、と話しているときが、一番うれしそうなのだ。(中村真理子)=朝日新聞2018年8月1日掲載