まぜご飯が出てくると、私の顔はゆるんでしまう。それが豆ご飯ならなおさらゆるみ、ほっぺたどころか顔ごとぽとりと落っこちることもありえる。それで豆ご飯のときは、少々いかめしい顔をする。豆は空豆でもグリーンピースのどちらでもいい。
食通ではないから、こまかいことはいわないが、お米と豆はいうまでもないとして、昆布と塩のかげんが決め手のように思う。お釜の蓋(ふた)をあけたとたん、お米と豆と昆布の匂いが渾然(こんぜん)一体となり、わが鼻腔(びこう)をくすぐる。それはほのかな匂いであるから、微香が鼻腔をくすぐるといえなくもない。いや、春の匂いがというべきだろう。
つぎは塩加減だ。なんといっても「甘い」と思わずつぶやくようなのがいい。「塩っぱいなあ」というようでは、お米にも豆にも昆布にも失礼である。この絶妙の世界をわが妻は得意技としている。その瞬間、ほんの一、二秒ほどであるが、妻をまことにかわいいと思う。
私はもう七十八歳だから、再婚などは考えたこともないが、もしも、やもめになった私に、豆ご飯を届けてくれる女性がいたら……。私はたちまちかわいい妻のことは忘れ、婚姻届に判を押す、ような気がする。これは私の人格の問題ではなく、舌と胃袋に人格がないという、しごく単純なことであろう。
それほどに豆ご飯は、うまい。
栗ご飯もおいしいが、豆ご飯にはまける。
ムカゴご飯もおいしいが、豆ご飯にはかなわない。
互角になれるのは筍(たけのこ)ご飯だろうか。どちらも春の香りを届けてくれる。
いや、もうひとつある。椎茸(しいたけ)と揚げのまぜご飯だ。戻した干し椎茸や揚げに、季節の香りがあるとも思えないが、口に入れたとたん「ああ」となる。祖母の味だからだ。
祖母は福岡県柳川市沖端(おきのはた)の人だった。北原白秋の里である沖端の人が、だれでも椎茸と揚げのまぜご飯を好むのかどうかは知らない。だが、揚げの味噌(みそ)汁は好きだと断定してもよい。残念なことに東京生まれの妻は、この揚げの味噌汁をはなはだ好まない。おねだりすればこしらえてくれるが、ビミョーにちがう。
これをもって、かわいいわが妻が料理が下手だとはいえない。出汁(だし)も味噌もちがう。いや、たとえ同じだとしても、ビミョーにちがうはずである。なぜなら妻は祖母ではない。だからこそ祖母の味なのだ。
祖母は得だ。=朝日新聞2019年6月8日掲載