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北村紗衣さん「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」インタビュー 目からうろこのフェミニスト批評集

文:篠原諄也 写真:斉藤順子

傑作とされる古典がつまらなかった

――フェミニスト批評とは何でしょう?

 フェミニスト批評はこれまでの批評が実は男子文化だったことに立脚しています。つまり、批評の歴史を振り返ると、男性中心的な社会の中で、男性向けに作られたものを男性の視点で読む。それが普遍的な解釈だとされてきました。

 日本の近代文学もそうで、たとえば、高校の教科書には太宰治など色々な作家の小説が載っていますが、「男性の自我」などがテーマにされていることが多いんです。そうした作品の読み方だけを教わってしまうと、女性とか同性愛者の方であっても、知らないうちに男性・異性愛中心的なものの見方を身につけてしまいます。

 でも実はそうした作品に性差別的なところがあるのではないか。提示されている「女らしさ」「男らしさ」は作られたものなんじゃないか。そうした切り口から、性別やセクシュアリティに関することを深読みしていくのが、フェミニスト批評ですね。

――北村さんはフェミニスト批評は「楽しい」と書いていますね。

 私がフェミニスト批評を楽しいと思う理由のひとつは、自分自身の経験からです。高校生の時、太宰や鴎外などいわゆる古典といわれる小説をいっぱい読みました。でも、皆が傑作だと言う作品でも「全然面白くない」と感じることが多くあったんです。

 その後、大学でフェミニスト批評を習った時に「なぜつまらないのか」が初めて分かるようになりました。この作品はこういう文脈でこういう点を評価されているけれど、フェミニスト批評ではツッコミどころがある。私が面白く思わなかったのは、そこに違和感を感じていたんだな、と分かったんです。面白い作品はより面白くなるし、つまらない作品はその理由が分かるようになってくる。それが私にとって、フェミニスト批評のとてもいいところでした。

――本書の中の批評「腐女子が読む『嵐が丘』」でも、北村さんが高校生の頃に感じた違和感が書かれていました。『嵐が丘』はお好きだったとのことですが、文庫本の訳者あとがきで、この作品は「エロティック」でないと評されていたと。北村さんの基準では十分にセクシーだったと書いていますね。

 『嵐が丘』のキャシーとヒースクリフの恋愛は、直接の性描写はないのですが、生々しくてドラマチックだと感じました。すごく身体的に訴えてくるというか、ワクワクする感じですかね。でも、あとがきに「この話には官能性がない」といった評価が書いてあって、よく分からなくて。

 ある時(米テレビ局)CBSで放送された映画ランキングシリーズ「アメリカ映画100年」で、「嵐が丘」が「セクシーな作品である」とオススメされているのを見ました。映画がセクシーならば、原作だってそうじゃないかと思って。他にもきっとそう思う人がいるし、私の読みを進めていってもいいはずだと思ったんです。

――「腐女子的」な読解技術で読むと、セクシーな作品に読めると書いていますね。ヒースクリフは男でありながら、男性的世界から締め出されている存在である。男女間の差が象徴的な意味で打ち消されている二人は、対等な相棒であり、その二人の間に性的なものを読みとることが「腐女子的」だとしています。

 腐女子は、英語圏ではスラッシャーというんですけど、その読解技術はあまり性描写がない作品でも、人物同士の関係性から性的なものやエロティシズムを読み取ることに特化しています。妄想とも言われやすいんですけど。ひょっとしたら『嵐が丘』の官能性を分析する時に、腐女子とかスラッシャーの解釈技術を使って読んでいいんじゃないかと思ったんです。

 作品が書かれた当時はヴィクトリア朝で、謹厳な文化が広まるようになったんですよね。小説は性描写が抑えてあって、とても気をつけて読まないと性関係などよく分かりません。この時期の作品を読むには、腐女子やスラッシャーの人たちが使っている読解技術は使えるかもしれないと思っています。

――本書でも性表現はその時々の社会通念によって左右されるとしています。たとえば、現代日本では「性欲は男の本能なので抑制できない」などと言われることがありますが、こうした性差についての考え方は歴史的に作られたものだと指摘していますね。

 たとえば、中世や近世くらいのヨーロッパでは、女性は自分を律する心が弱いから、すぐに性的誘惑に屈するといったイメージがありました。仏教でも「女性のほうが罪障が深い」という考えがありますよね。今のような「女性のほうが謹直で性欲を露わにせず折り目正しい」といった考え方とはかなり違うものだと思うんですよ。「女らしさ」や「男らしさ」は、時代によって変わっていきます。そこを理解するのは、文学や芸術を解釈する上でも、大事になってくるだろうと思います。

ディズニー作品に感じる違和感

――他にとても印象的だったのは、女性や同性愛者の描かれ方が画期的とされた作品でも、細部を見ると問題があると指摘していることでした。たとえば、2013年制作のディズニー映画「アナと雪の女王」は、王子様と結ばれることを解決としないラストがフェミニズム的と評価されたと紹介しながら、しかし問題点もあるとしています。ヒロインのエルサは氷などを操る魔力を隠して生きていますが、最後にその力を使ってスケートリンクや氷の彫刻を作ることで、社会から評価されます。マイノリティは社会に還元すると価値があるといった考え方が押し付けがましいとしています。

 「アナ雪」はあれはあれで凄くよくできてると思うんですけど、エルサがひとり山にこもって、雪だるまと暮らしながら氷のお城を完成させる終わり方になってもいいと思うんですよ。ディズニーは全体的に「アメリカというコミュニティに参加すること」を良しとする雰囲気があって、ひとりぼっちで芸術作品を作っている人や、人が嫌いな人にあまり優しくない。

 結局、ディズニーは外向的な芸術家集団なんだと思います。つまり「アメリカの子供たちのために、芸術の素晴らしいビジョンを提供しないといけない」という考えがある。エルサがみんなのためにスケートリンクを作っているのは、ディズニーのアニメーターの人が普段やっていることと同じなんです。

――北村さんはディズニーが好きじゃないそうですね。

 最近は少しよくなってきたんですが、ミッキーマウスなどの著作権にやたらと厳しいですよね。自分たちは他の作家の古典などいっぱい使って、その映画化で儲けているのに、ミッキーなどのキャラは他の人には使わせないのが好きじゃなかったんです。

 子どもの頃は少し見ていましたが、好きだったのは「ロビン・フッド」でした。「シンデレラ」みたいなお姫様には興味がありませんでした。私は小さい頃、凄く太ってて可愛くなかったし「あんなお姫様になれっこない」と思っていた。「ロビン・フッド」は狐が悪代官をやっつける話で、アクション映画みたいで凄く好きでした。

オスカー・ワイルドが生きていればツイッターをやっていた

――ところで北村さんはツイッターやブログで積極的に発信していますよね。ウェブでの発信は意識的にやっているんですか?

 私、オスカー・ワイルドが凄く好きなんですけれど、多分ワイルドが今生きていたら絶対にツイッターやるだろうな、と思ったんですよ。自分のことを宣伝したり、他の人をからかったりするんだろうな、と。ワイルドの作品に「人の噂にのぼるよりもひどいことがたったひとつある。噂にされないということだ」(『ドリアン・グレイの肖像』福田恆存訳、新潮文庫)という言葉があります。「批評家は芸術家だ」という考え方を持っていたんですが、芸術家は人に見てもらわなくちゃいけない。セルフプロモーションが上手な人で、ある種の美学として、自分をどうやって人に見せるかを強く意識していました。私は困った時はワイルドならどうするかを考えるようにしていて、ウェブで発信する時もそうなんです。

――今はSNSですぐに作品についてレビューを書ける時代ですが、こうした状況についてどう思いますか?

 誰でも批評やコメントができるようになったのは、凄くいいことだと思っています。ただ一方で、そうした感想を深く集積できるような、まとまった長さの批評が、余計必要になってくるのではと思います。普通に感想を言うだけだと、檻に囚われっぱなしの感想になってしまいがちなんですよね。

――「檻に囚われた」感想とは?

 今まで暮らしてきた社会のバイアスに従っただけの評価を続けてしまう可能性があります。たとえば、学生の卒論指導をしていても、昔の映画のコンテクストがよく分からないので、今の視点で見た解釈をしてしまうことが結構あるんですよ。

 批評は本当は誰でもできるはずなんですけど、一方で結構訓練しないといけない。ワイルドは「批評は芸術」だといいましたが、たとえば、ピアノは誰でも習うことはできますよね。でも、上手になるには結構練習が必要です。批評もそれくらいの訓練が必要かなと思います。作中のほのめかしやコンテクストの理解は、読み慣れることで結構気づくようになってくるんです。

――北村さんはシェイクスピア劇を楽しんだ女性たちがテーマの博論を書き出版していますが、芸術作品の受け取り手に関心を持つのはなぜでしょう?

 観客や読者が文化を支えていると思うからです。読んでくれる人や見てくれる人がいないと、どんな芸術もないと思うんですよね。さらに、マーケットで買ってくれるだけでなく、きちんと評価して解釈してくれる人がいないといけません。

 たとえば、プラハはモーツァルトを一番評価した街だと、今でも誇り高く振舞っていますけれども、私たちもそんなプラハみたいな、新しい芸術を受け入れられる成熟したコミュニティ であるべきだし、ありたいと思っています。そういうコミュニティを作るために、ちゃんと批評をして、観客や読者同士の意見交換をするのは大事だと思います。

 みんながアクセスしやすい形でネットなどに批評を書くのは、そうしたいい観客や読者を育てることに関係があると思います。自分でお芝居を見ただけだと、意見を交換する相手がいない。そんな時に、批評は意見交換の始まりになるポータルを提供するものだと思うんですよ。

――あとがきで「批評家は探偵」だと書いていますね。本書に入っている25本の批評は、北村さんが探偵となって担当した事件だとしています。

 イギリスの有名なミステリ作家・チェスタトンの短編「青い十字架」に「犯罪者は創造的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎない」という有名なセリフがあります。私は探偵が凄く好きだったので「いや、シャーロック・ホームズやミス・マープルのような名探偵だって、凄いじゃないか!」と思いました。でも逆に言えば、批評家はそんな名探偵を狙っていけばいいじゃないか、と。私はそんな人たちみたいに凄くないですけれど、それくらいの心意気で作品を分析したいと思っています。

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