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「恐怖」とは何なのか ホラー作家・平山夢明さんと澤村伊智さんに聞いてみた

憂さを晴らした先の現世肯定 平山夢明さん

 恐怖の実体をつかみにいこうとすると、えたいが知れなくなる。お化けみたいに、ふわーっていなくなっちゃう。どうも、本来おれたちが持っている、死にたくないという感情の乾電池があって、それにつながった豆電球を点灯させなければいけない。死角・急所を突かれると娯楽としての恐怖になるみたい。

 不明なものがあると、人間は不安な状態に置かれる。自分が死んだり不幸になったりすることは見ないようにして生きているわけ。でも、薄目をあけて状況を見ていたいというのが恐怖の醍醐(だいご)味なんだよ。動物園の肉食獣をおりごしに見るということだよね。いったん知識として取り込んでおけば、近しい状況があったときに体は反応できる。

 恐怖はもう一つ、なんのてらいもなくひとを攻撃できる面白さがある。怖い話って、相手があぜんとしたり怖がったりするじゃん。でも怒られないわけよ。難しい話より、お化けの話をするっていうのを日本人のたしなみにしてもらいたいね。ホラー小説は、自分が誰かに話すネタ帳として読んでもらうのが一番。

 昔は居酒屋に行くと、とっつぁんらがお化けの話をしていた。20代の頃、川崎で通っていた店では、お盆になると、だいたい死んだ仲間の話になって「あいつが来るんじゃないか」って言っている。と、ガシャーンって音がしてさ。びびって振り返ったら製氷皿が落ちただけ、なんていうのが面白いんだよ。

 ホラーも含め、エンターテインメントには守らなければいけない大原則がある。現世肯定しなければいけない。それぞれが持っている暮らしや信条を肯定する。今は現世肯定しない娯楽が多すぎる。

 作家に何ができるかというと、エンターテインメント性のある憂さ晴らしで物語に引きずり込んで、つらさを昇華させること。『あむんぜん』(集英社、7月刊行)は、堅っ苦しい小説をぶっこわして、落語以下、居酒屋のののしりあい以上のものを書きたかった。文句を言う気も失せるようなくだらないジャンルがほしいんだ。読んで平和な気持ちになるものを100冊並べたいんだよね。

100%安全ではない日常の中で 澤村伊智さん

 恐怖はただの感情でしかない。僕が小説で取り組んでいるのは、どのようにその感情を喚起させるか。怖いものを書くというよりは、いかに怖く書くか。

 ベリッとはがしたら虫がいっぱい湧いていたというように、一見普通だと思ったらそうではなかったという意外性が絡むと怖くしやすい。

 僕は事務所で仕事をしていて、遠くから大きな音が聞こえてくるだけで怖い。隣のアパートでカップルがけんかしていても、暴力沙汰になるんじゃないかと怖くなる。食堂にいて、客が店員を呼んでも来ないと次の瞬間にキレ出すんじゃないかと、もう味なんかわからない。最近、満員電車も、誰か暴れ出すのではないかと乗れなくなってきた。

 『予言の島』(角川書店、3月刊行)は、横溝正史の『獄門島』をリスペクトして書いた。正気であっても、人は運命的なものを感じただけで人を殺せるところがとても怖かった。それは、超自然的な力、あるいは言葉の持つ魔力。言葉に操られて殺人を実行したという言い方もできるから。

 僕たちの日常が100%安全という保証はじつはどこにもなくて、なんとなく大丈夫だという約束事の中で生きているだけ。

 バリエーションがいくつもあるタクシー怪談は、その最たるものではないか。運転手からすると、見知らぬ人をいくばくかのお金と引き換えに乗せるのは、本当はとても危険だ。客からしても、どこに連れて行かれるかわからない。ビジネスのあり方自体がとても恐ろしい。それなのに、みんなビジネスとして成り立っている体でいる。

 でも本当はどこかで、全然大丈夫ではないと気づいている。だから怪談が生まれるのではないか。

 同じことは森羅万象、あらゆることについていえて、それを一個一個見つけて、お話の形として出力するのが僕の仕事なのかな。
 ただ、怖がっているものが差別に結びつくことがままある。差別感情と恐怖は、未知のものに対して抱くという共通項がある。恐怖はありふれた感情ではあるけれども、もっとも繊細に取り扱わなければいけないと思っています。(興野優平)=朝日新聞2019年8月28日掲載