英国・ブライトン発、「元底辺中学校」の現場から
――一気に読みました。英国社会の荒廃を無料託児所などの光景から浮き彫りにしたルポや、政府の緊縮財政の愚を指弾する時評とは、ずいぶん雰囲気が違う気がします。
そうかもしれません。英国で周囲にいる人々や出会った人々を観察して書くのでなく、いままさに私自身の現場である子育ての日々を、初めて書いたノンフィクションなんです。
ロンドンの南、ブライトンという海辺の町で息子が通う公立中は、貧しい白人の子どもが多く、少し前まで学力的に最底辺校と呼ばれていたところです。それが音楽とか演劇とか、生徒がやりたいことをのびのびやらせるユニークな改革を重ね、生徒たちの素行も改善され、学力も上がってきた。とはいえ、トラブルは日常茶飯事。移民問題や貧困問題が背景にあります。そこで起きる出来事をちりばめながら、思春期の息子と私たち夫婦のホームドラマの要素も入っているので、マイルドな印象もあるのでしょう。
単著は10冊目になるらしいのですが、今回は、より多くの読者に届くオープンな本にしたいと思いました。自分の主張は控えめにし、状況を皆さんに伝え、考えていただく。果たして面白いのかな、という気持ちもありましたけど。
――すごく面白いです。この手法だからこそ、今ひとつわかりにくかった英国社会の最前線の一端を、リアルに知ることができた気がします。
本当に、ぐっちゃぐちゃですからね。人種・民族にジェンダーといった軸と、階級という軸とが複雑に交差して。移民でもお金をためて一定レベルの生活をしている人もいれば、貧しく取り残された白人も多い。いろんなレイヤー(層)があって、互いに意識し、時に差別しあう。「多様性はややこしい、衝突が絶えないし、ない方が楽だ」って書きましたけどね。
いま英国は、3度目の大きな変化の波にあるといわれています。「揺りかごから墓場まで」で有名な福祉政策を打った労働党政権の「1945年のピープルの革命」が最初。そして次が80年代、福祉切り捨てや民営化などの新自由主義的路線に転じたサッチャー政権。90年代には「第三の道」を提唱したブレアの労働党政権が期待されましたが、失望に終わり、2010年から保守党が進めてきた緊縮財政によって、貧困層にしわ寄せが強まり、社会の分断が進みます。EU離脱をめぐり紛糾するいまは、3度目の波のさなかなんですね。
というわけで、ひどく大変な状況ではあるんですが、子どもたちはたくましい。日々、ぶつかりあい、迷い、考えながら、思いがけない方法で、突破していっている。乗り越えるというより「いなしていく」という言葉がぴったりかな。たとえば、ぼろぼろの制服を着ている友達に、代わりの服をあげたいと思う。でも返ってそれは、相手を傷つけることにならないか。いざ口にしたら、案の定、不審の目を向けられた。とっさに息子は「君は僕の友達だから」と言ったんですね。
――絶妙の一言ですよね。
そのやりとりを目にしたとき、私が思い出したのは、例えばジョージ王子が通っている私立校をはじめとし、「ベストフレンド」という言葉は使っちゃいけない、という方針の学校が出て来た、というニュースでした。さすがにPC(ポリティカル・コレクトネス=政治的な正しさ)の行き過ぎだと、たたかれていたようですが、ほら、いいんだよ、助けたくなるかけがえのない友達がいていいんだよと、息子が示してくれた気がしました。
そういえば数か月前、マイクロソフトのワードファイルで、AIがPC(ポリティカル・コレクトネス)的に正しくなるよう私たちの文章を書き換えることが可能になるというニュースが話題になりました。PCを否定するつもりはありません。それは多様な社会で生きるために必要なものです。でも、あらかじめ問題になりそうな言葉が、「なぜいけないのか」を考える暇もなく排除されてしまったら、その言葉を吐かれた人の痛みといった現実的なことを考えてみる機会も、奪われかねない。深く理解することと、傷つけあって学ぶこと。2つが結びついている場合もあると思う。
――ご本の中で、多様性は楽じゃないと伝えたブレイディさんに、息子さんが「楽じゃないものがどうしていいの?」と尋ね、「楽ばっかりしてると、無知になるから」と答える場面が印象的でした。
さっきの話に通じることです。今の時代、インターネットで何でも手に入れられると思いがちですね。でもそれで知識を得たことにはならないでしょう? 私、よく「地べた」という言葉を使うんです。「机上」に対する「地べた」。地べたで実際に人とぶつかる中から、本当の理解が生まれる。インテリジェンスというより、「叡智」みたいなもの。それが今の世の中、欠けていないでしょうか。頭で考えすぎて、空中戦になりがちな今の風潮をみていると、子どもたちの世界の方がよっぽど人間として大人で、まともに思えることも多い。
もちろん、物事を論理的に考えていく知的な作業の大切さも承知しています。あるとき、息子が「エンパシー」という言葉の意味を、学校のシティズンシップの試験で問われて、「誰かの靴を履いてみること」と回答したというんですね。これは英語の定型表現なのですが、シンパシー(同情する)と違い、エンパシーは自分と違う理念や信念をもつ人のことを想像してみる、主体的な力のことです。息子は、EU離脱などで分断が進む今の社会で、その力が大切になると教わったらしいです。
――ご本の魅力の一つは、そうした息子さんの聡明さですね。様々なバックグラウンドをもつ友人たち、先生、お母さんお父さん、道ですれ違う人たちまで、いろんな言葉や態度から、様々なことを感じ取り、考え、次に生かしている。
いえいえ、まったく聡明じゃないところもありますけどね。でも、もう13歳ですから、スポンジみたいな吸収力には驚かされます。えっ、そんなこと覚えていたんだと、はっとさせられることは多いです。私も、一緒に学んでいく日々です。
ライター・保育士、ブレイディみかこができるまで
――福岡のお生まれですね。どんな子どもでしたか。
気が強かったですね(笑)。とっくみあいのケンカもしましたよ。勉強は全然しなかったけど、試験の要領だけはよかった。家は土建屋なんですが、貧乏でしたね。周りもそんな感じだったから、中学まではあまり気にならなかった。ところが地元の進学高に入学して、家のことは一切言えなくなりました。お金がなくてパン1つしか買えなくても「ダイエット」なんてウソついて。裕福な家庭の子どもたちには、貧乏のイメージがわかないわけですよ。彼らの幸せな世界を、こんな暗い話題で壊しちゃいけない、と感じていた。
――それは、自分を保つため?
そうだったと思いますね。恥ずかしかった。なんでこんなに貧乏なんだろう、なんでこんなところに生まれちゃったんだろうって。親がバカだからだと思っていましたよね、ずっと。
上の学校に行きたいとか、お金があれば、ああいうこともできた、って気持ちは当然ありましたけど、自分でなんとかしなきゃいけない。で、バスの定期券を買うために、スーパーのレジ打ちのバイトをやっていたんですが、あるとき学校にばれちゃったんですね。そうしたら担任から叱られた。理由を正直に説明したら「いまどきそんな家庭があるわけない」って。そこから、本気でグレましたね。授業をさぼり、バンドばっかりの生活になった。
英国との出会いはそのころからです。学校で家のことを話せない自分がいて、でも帰宅してブリティッシュ・ロックを聴いたら、労働者階級である自分を誇りに思う人たちがいると知る。会ってみたい、彼らの国に行ってみたいと、あこがれました。
――いつから渡英したのですか。
高校卒業後の80年代半ばです。行ってみたら、やっぱりすごく気が楽でした。労働者階級の誇りも肌で感じましたけど、何ていうかなあ……あまりちっちゃなことにこだわらない。自分は自分で、好きにしていられる。それが日本と決定的に違った。で、ビザが切れると帰国して、お金をためてまた出かける、というフーテン暮らしを続けました。男性を追いかけていったこともありましたね、はい(笑)。バブル世代だから、楽天的だったのかもしれません。いまはこんなフラフラしていても、何とかなる、という根拠なき確信を抱いて生きられる時代だった。
その後、アイルランド系の英国人の夫と知りあい、結婚して96年からブライトンに住み始めました。この間、日系企業のアシスタントをしたり、翻訳の仕事をしたり。新聞社で働いたこともありますが、特派員が発信する英国だけが日本に情報として入るとしたら、かなり偏ってしまうなと正直思っていた。駐在員の記者の方々はいつも多忙で、地元のコミュニティに根差して生活しているとは言い難い。そうすると、英国の人々の感覚と報道がずれて行くのは当然です。だからと言って、自分が書こうとか、そんなことは夢にも思ってませんでしたが。
ライターの仕事は、ほんの小遣い稼ぎに始めたことです。それが変わってきたのは音楽雑誌「エレキング」に書くようになってからですね。好きな音楽について書き始めると、政治も社会も、いろいろと自分の言いたいことがわいてきた感じで。そうこうするうち、2006年に出産し、翌年に保育士見習いを始めるわけです。
――そもそも、また何で保育士に?
自分の子を産むまでは、子どもなんてケダモノというくらい、好きじゃなかったんですよ。それが、世の中に子どもほど面白いものはない、と大転換が起きた。無料託児所の門をたたいたら、ここの創設者が地元では伝説の幼児教育者だった。息子は彼女に見てもらったのですが、親なら見逃すような成長のあとも、詳細に記録してくれるプロ。平等も自由も大切だ、両方あってしかるべきだという理念の持ち主でした。私の師匠、と呼べる人ですね。
でも当時の保守党の緊縮政策のツケで、託児所はつぶれてしまいます。そこから保育士の仕事をPR誌に書いてほしいとみすず書房から声がかかり、別途、ヤフーニュースでも執筆依頼があって、その記事を集めた本が岩波書店から出た。人文書の世界にデビューみたいな感じですかね。それから今日に至る……ほとんど成り行き、ですよね。
――でも、もともとはライター志望だったのですか。
いやいや、そんなことないですよ。ただ、本を読むこと、文章を書くことは、好きだったのかな。十代のころは、けっこう小説を読んでいて、特に好きだったのは坂口安吾とオスカー・ワイルド。流行りの作家なんかも、わりと読みましたね。
あと、不良だった高校のとき、白紙で出した答案用紙の裏に、バンドの詞や、大杉栄についてのミニ論文とか、ヒマだから書いてたんです。そうしたら、私の文章を読んだ現代国語の先生が「君は物を書きなさい」と言ってくれて。どの先生からもたらい回しにされていた私の面倒をみる、と言ってくれ、2年生、3年生と担任になってくれた。何度も何度も自宅に足を運んでくれて、「大学に進んでたくさん本を読んで、たくさん文章を書きなさい」と。まあ、うっとうしくて勉強もやりたくなかったから、大学には進まなかったんですけど……。回り回って、こうして物書きになった。不思議ですよね。
――いろいろな出会いが、いまのブレイディさんをつくってきたのですね。ご本にも、息子さんの友達2人に絶妙なケンカ両成敗が下された話にからめて、小学校の恩師のことが思い出されていました。
周囲の反対を押し切って、差別を受けていたコミュニティの人と結婚した方です。きっとご自分の経験があったからこそでしょう、彼女は、どの差別がよりいけない、という前に、「人を傷つけることはどんなことでもよくない」と子どもたちに言い聞かせていました。もう40年ほど前で、半分覚えていたかどうか、くらいの話だったのに、息子の話を聞いてフラッシュバックのように蘇ってきた。子育ての面白さは、そんなところにもありますね。
日本社会へ、日本の女性たちへ
――平成のほぼ30年、離れていた日本は、いまブレイディさんの目にどう映りますか。
一言でいうと、窮屈になった。帰国するたび、そう感じますね。様々な現場で若い人たちを取材したことがあるのですが(「THIS IS JAPAN」、太田出版)、仕事でも人間関係でも、生きづらさを自分のせいにする。自己責任論というやつですね。どうにかなるという楽天的なところも感じられない。私も若いころ、めちゃくちゃ貧乏だったけど、もう少し楽天的でした。今の、この時代を覆う空気なんでしょうね、きっと。
それから気になるのは、女性問題。英国にいると、特に去年くらいから、女子学生を不利にする医学部入試とか、相撲の土俵に女性が上がれないとか、女性が虐げられた国・日本、というニュースばかり目に入ります。海外メディアにとっては、いかにも日本っぽいという話題で、飛びついている面もあるでしょうけど、悲しいのは、「いや、それはウソです」と言えないことですね。
――確かに。反論できない。
いまの日本で何がいちばんダメかといえば、経済と女性問題です。この問題をどうにかしていくには、フェミニズムのありかたを考え直すべきじゃないかと思う。男性社会で差別はいろいろあったし、つらい目にあったけど乗り越えた。私=グレイト、だからあなたも頑張れ――こんな新自由主義的な発想では、逆に個人が生きづらくなると思う。もっとソーシャルなフェミニズムを作りだしていかなければいけないのでは。世界的に広がった「Me Too」の運動だって、そういう方向でしょう?
フェミニズムといって語弊があるなら、シスターフッド(女性同士の連帯)と言い換えてもいい。つらいことをなくしていこうよ、という社会制度を変えていく方向への転換は、一人じゃ絶対無理ですから。
最近、韓国の女性作家の「82年生まれ、キム・ジヨン」っていう本が売れているじゃないですか。知りあいに聞いたら、あれを読んだ韓国の女性はみんな怒った。でも日本の女性は泣いたと。これが示唆するものは大きいと思う。泣いて終わってたら、しょうがない。涙が乾いたら明日からがんばろうじゃ何も変わらない。やっぱり、みんなで怒らないと、誰もビビらないですよ。
――でも以前、フェミニズムって「おっかない」と感じていたと書いていましたよね。
ええ、そう思ってました! 私なんか、きっと怒られるって。だから最近まで直接的には書かなかったんです。やっぱり、フェミニズムが学問になってしまって、第一波がこう、第二波がこうと(笑)。そんなことを知らない学のないおまえが言うな、と言われそうだから発言しちゃいけないのかな、と思ってた。
でも、これからの女性の運動は、フェミニズムのフェの字も知らないような人が「私もつらい」「おかしいと思う」と声をあげる、あげてもいいんだ、と思えるものにしないと実際には何も変えられないと思う。女だからといって、何でこんな目にあわなきゃいけないの?と誰もが言い出せる勇気をもらえるものにしないと。
フェミニズムも左派も、よく分裂しますよね。左派は思想や理念で分裂するのが宿命だとよく言われますけど、でも女性であるということは思想や理念じゃないですよね。事実であり、現実です。なのに無駄に分かれて行ったら、それだけ声が細く小さくなって行く。そもそも女性って数的にはマイノリティでも何でもないですよ。世の中の半分、しっかり生きているんですから。これが何で、いまだにマイノリティということになってるのかが問題であって。
もちろん個人であることも大事ですよ。だれかと同じになれ、って上から言われたら、私はぜったいイヤだし、まず、なれないし。個人でありながら、そのうえで、ゆるやかに連帯する。個人的なものとソーシャルなものはいつも対立する概念でもないですよね。私が私として生きられるようにするために連帯して闘うこともある。要するに、このバランスが大切なんですよね。
――萎縮し、閉塞する一方の、日本社会へのメッセージは、ありますか。
不確実な時代って、みんな正しい答えをほしがります。迷ったり、間違ったり、道を踏み外したりすることを恐れる。そういう機運が、ますます閉塞を強める。だから、そういう時代こそ「迷ってやる」くらいの気持ちが必要じゃないかな。自ら迷いながら、探していく。ネットに答えなんか載ってない。だから、ここだけが世界だと思わないこと。迷っているあいだに、まったく違う世界が見つかるかもしれない。今ある世界が、すべてじゃない。どんどん違う世界に出ていけばいいと思いますよ。
最近、100年前に生きた日英の3人の女性、アナキストや運動家のことを本に書いたのですが(「女たちのテロル」、岩波書店)、いまの時代にアナキズムが必要だとすれば、「鋳型にはまるな」っていうことなんだと思う。人がつくった鋳型にはまるな。今ある鋳型を信じるな。これだけ世界が大きく変わっている時代です。これまでの鋳型を信じてやっていても、しくじる可能性が高いですし(笑)
――今後のお仕事は。
私は自分が論客とは思っていません。なりたいとも思っていない。現場を大切にしたいのもあるし、何が書かれているかよりも、「どう書くか」のほうが気になるということは、書き始めた頃からずっと言ってきた。物書き、ですよね。明確にそうありたい、と思っています。
ただ、小説とかノンフィクションとか評論とかエッセイとかルポとか、ジャンル分けが細かすぎると思うことがよくあります。形式にこだわりすぎというか別に、ぎちぎちに分けなくてもいいんじゃないかと。ジャンルをクロスオーバーしていると、邪道というか、イロモノ扱いもされますけど、窮屈なところにはまり込むより面白いと思います。
先日、詩人の伊藤比呂美さんと会ったんですが、彼女は詩だけでなく、エッセイや小説も書かれていますけど、「私の書くものすべてが詩だ」と仰ってます。僭越ながら、その感覚はわかる気がする。と言っても私は詩人じゃないので、「私」がジャンルということにしておきますか。なあんて。
「好書好日」掲載記事から