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18年ノーベル文学賞、オルガ・トカルチュクさんとは 絶え間ない越境、自由な想像力 沼野充義・東京大教授寄稿

2013年に来日したオルガ・トカルチュクさん=沼野さん提供

 二〇一八年のノーベル文学賞は、一年遅れで、ポーランドの女性作家オルガ・トカルチュクに決まった。彼女は菜食主義のフェミニストとして知られる。となるとこの選考結果は、ノーベル委員会を巻き込んだセクハラ・スキャンダルを意識したものとも思えるが、私の見るところ、彼女はそういった政治的思惑を遥(はる)かに超越して、現代の世界文学の中で際立って面白く、魅力的な作家である。そして、英語グローバリズムの現代にあって、英語圏で流通する人気商品としての文学に対抗できる、中欧の精神性、越境性、流動性を体現した存在である。

 トカルチュクは一九六二年生まれ、社会主義体制崩壊後に活躍を始めた。著書は既に十数冊を数え、国内では多くの権威ある文学賞を受け、文壇のスターとして圧倒的な人気を誇る。しかし英語圏での評価は遅れた。ポーランド語という「マイナー言語」で書く作家の宿命とも言えるだろう。日本では早くからトカルチュク文学の魅力を発見していた小椋彩さんの優れた訳によって、『昼の家、夜の家』と『逃亡派』の二冊の代表作が刊行されている(どちらも白水社)。日本の読者は幸運だ。前者は国境地帯の山村を舞台にし、後者は対照的に世界中での旅と移動が主題になっているが、二冊とも枝分かれしながら展開する短い断片をつなぎ合わせた独特の書き方で、本人はこれを「星座小説」と呼ぶ。彼女の物語は単線的には進まない。キノコのように増殖し、境界線上でたゆたい、絶え間ない越境を繰り返す。リアルと幻想、現実と伝説の間を自由に行き来する。

 二〇一四年に出版された大作『ヤクプの書物』(未訳)は、一転して、一八世紀のユダヤ人宗教指導者ヤクプ・フランクとその時代を扱ったものだが、本書の主題に関連してトカルチュクは、ポーランドが歴史上、抑圧の犠牲者であっただけでなく、時に他の民族を抑圧してきたことを公然と指摘し、民族主義者たちを激怒させて、国民の敵と罵倒された。

 折しも最近のポーランド社会では国粋主義、排外主義、不寛容といった傾向が顕著になってきており、こういった危険な流れに真っ向から立ち向かうトカルチュクの姿は美しく凜々(りり)しい。しかし、それは彼女が特に政治的な作家だからではなく、あくまでも自由な想像力を備えた優れた作家だからである。=朝日新聞2019年10月23日掲載