日本のみならず韓国社会への問いかけ
韓国では1960年代から、軍事独裁政権に抵抗する民主化闘争が知識人などを中心に始まった。多数が虐殺された80年の光州事件を機に本格化すると、それに呼応するように、民衆美術は生まれた。報道が規制されるなか、虐殺や抑圧の実態を伝えるため、木版画や垂れ幕絵が作られた。少女像作者の金運成(キムウンソン)、金曙ギョン(キムソギョン)夫妻も、美術大学在学中から民衆美術を手がけた。
しかし民衆美術は長く韓国美術の表舞台から排除されていた。「街頭や工場など運動の現場で展開され、現実の矛盾をリアルに描く作品は芸術としては認められにくく『プロパガンダ』とみなされた」という。
それでも大勢が加わったのは、植民地化、南北分断、独裁政権と続く歴史は「日常が政治」だったからだ。「よりよい社会をつくるために、美術と政治の線引きなどしている余裕はありませんでした」
民衆美術という背景を知ると、少女像を違った角度から見ることもできる。
「作者にとって、韓国という国家は、自分を重ねる対象というより、むしろ抵抗の対象にもなります。作者は、ベトナム戦争中に韓国軍が行った民間人虐殺を反省し、悼む像も作っていて、『反日』や『ナショナリズム』で動いているわけではないのです」
少女像のかかとが少し浮いているところに、日本のみならず韓国社会への問いかけがこめられているという。作者は2015年のイベントで、女性たちが故郷に戻っても居場所がなかったり、被害を語れなかったりしたつらい状況を表していると語った。
1990年代に民主化が進むと、民衆美術に対する社会の評価は変わり、国立美術館で民衆美術展が開かれた。一方、朴槿恵(パククネ)大統領の下では、2014年の光州ビエンナーレで、民衆美術の有力作家によるセウォル号事件と光州事件を重ね合わせた作品が、光州市の介入により展示を拒否された。「『何が芸術か』をめぐる論争は絶えず続いているのです」
民衆美術の歴史から、日本が学べることは何か。古川さんは、「日本ではいまだに『芸術か政治か』という二択に固執している」という。「アーティストには、一度『政治』にはみ出すとアートの世界に戻れない、という意識があるのかもしれません。本当にあらがうべきものを見極めて覚悟をもってあらがうこと、抵抗しても孤立しないという連帯感を築いていくことが、大切だと思います」(高重治香)=朝日新聞2019年10月23日掲載