連作短編 現実への違和感が背景に
『出来事』は、ある日突然、偽物の世界に閉じ込められたと感じるようになった小説家が主人公。化け物のように醜い弟、色情狂の妻、奇妙な隣人たち――。連作短編を読み進めるうち、どうやら「チク」と呼ばれる場所があり、感染性の病気が封じられているらしいことがわかる。だが、どんな病気かはわからない。誰もがそれを口にしない。
「結局、この世界は作り物だということです。たとえば、目から入ってくる視覚情報が100%やとしたら、脳のなかに届くのは3%らしいんですよね。あとの97%は脳が勝手に作ってるイメージだっていうんですよ。だとすれば、この世界のほとんどは我々の脳のなかの世界で、ほんとうの世界は見えない」
もし「ほんとうの世界」が見えたら、人はどうなってしまうのか。SF的ともいえる発想の根源には、ニーチェ哲学があった。
「たとえば、あるちょっと頭のおかしい人が出てきたとしますよね。その人が見ている世界は、ほかの大多数が見ている世界とは違うとする。そしたら、その違っている人間の認識は、長い年月のあいだに淘汰(とうた)されていくんですよ。精神病院に収容したりとか、村八分にしたりとか。ようするに、別様の感じ方をする人は排除されてきた」
自分が正しいと信じている認識は、ほんとうに正しいのだろうか。その疑いは近年、ますます強くなってきたという。
「安倍政権になって、フェイクばかりというか、ほんとうのことが何なのかよくわからない。公文書は消えるし、あったことがなかったようにされる。トランプ大統領もそう。世界的な兆候として、何かが綻(ほころ)びてきてるんじゃないか。人間が作り上げてきたこの世界そのものに罅(ひび)が入ってるんじゃないか」
狂っているのは世界なのか、それとも自分自身なのか。作品に繰り返し潜ませてきた問いの背後には、「世界に対する違和感」がある。2014年の『ボラード病』(文春文庫)は、東日本大震災後に盛んに叫ばれるようになった「絆」が原点にある。
「たとえば『家族の絆』と言った場合に、いい面もあるけれども、家族の絆によってがんじがらめになって、苦しくてしょうがない人たちも存在するわけで。一面的に『いい』と言われていることを鵜呑(うの)みにできないというか。そういう体質なんでしょうね」
だが、「もうそんなに夢とか希望とか、あんまり信用してないですから」と嗤(わら)う半面、「でもね」と後をつづけた。「人類がいて、社会があって、というところに希望はないんですけど、たとえば妻とか弟とか、ものすごい近しい人間に対しては、完全に覚めてはないですね。最後の最後まで一縷(いちる)の希望にすがりたいという気持ちっていうのかな。そこが人間の最もうつくしい部分かなと思って。ほんとうに真っ暗闇ですけど、暗闇が深ければ深いほど、光が一点でもあれば、すごく目立ちますから。その光だけでいい。それが書ければ、もういいかなって。いまはまだ、闇を塗り込めてるだけのような気がする」(山崎聡)=朝日新聞2020年2月5日掲載