日本のことわざを見出しにする発想で、10年かけ完成
――『世界ことわざ比較辞典』のねらいや特徴を教えてください。
外国語のことわざを私たちが知りたいと思ったときに、どうやってアプローチしたらいいのか、適した方法はなかなかありませんでした。この辞典は、日本人がふだん意識しているであろうことわざを通して、それが世界ではどういう表現になっているだろうという視点で編集されました。
これまでにも英語圏を中心に、世界のことわざに関する辞典はありました。ただ、その多くは、言語別に羅列しているか、あるいは主題別の配列か、どちらかなんですよね。調べる際には使えるんですけど、あることわざが世界ではどうなっているのかと比較するのは難しい。日本のことわざを見出しにして、世界のことわざを探すという発想が、この辞典の大きな特徴だと思います。
――ことわざに関するさまざまな書籍に関わられてきましたが、今回は世界25地域・言語ということで苦労されたと思います。
20年前に単著で『岩波ことわざ辞典』を出しているんですけど、執筆期間だけでいうと1年弱でした。それに対して今回は、私自身の書いた分量は減りましたが、延べ30人以上が関わっていますし、ここまで10年かかりました。率直に言っても、10倍は大変だったかな(笑)。
石の上にも三年
我慢強く辛抱すればいつか成功することの譬え
[韓国]石も十年見つめれば穴があく
[ルーマニア]忍耐あれば海をも渡れる
[中国]鉄の棒も常に砥げば針となる
※抜粋、本書では原語の表記もあり
――大変な辞典づくりに、あえて挑戦された理由は?
「世界」を対象にことわざの辞典をつくるというのは、私自身もこれまでにない経験で、純粋にチャレンジしてみる価値があると考えたのが最大の動機です。また、当時は「日本ことわざ文化学会」が発足したばかりで、会員の共同作業で成果を出すような活動が必要だと感じ、プロジェクトを立ち上げました。
「古典ギリシア語」や、文字のない「チガ語」も採録
――辞典づくりはどういう形で進行しましたか?
プロジェクトは当初、この内容(300のことわざの国際比較)が第1部で、第2部がことわざに出てくる30の動物の比較、第3部が各言語の風土や歴史などを反映した固有のことわざの集成、という3部構成で進めていました。紆余曲折があって第2部と第3部はひとまず中断し、第1部だけでの完成をめざすことになりました。
大変だったのは、どういう方にどういう言語で参加していただくか、そのリサーチや調整も含めてですね。執筆をお願いした人の中には、海外におられて実際にお会いしたことのない方もいますし、この10年の間に亡くなられた方や病気で離脱された方もいます。翻訳に関しては、元の言語の雰囲気をしっかり残しつつ、日本語でも理解できるように表現をそろえていく、そのさじ加減が難しかったです。
――珍しい言語も収録されていますね。
アフリカのウガンダ周辺で使われている「チガ語」は、文字のない社会の言葉で、このような形で辞典に登場するのは世界で初めてです。梶茂樹さん(京都大名誉教授)には、この辞典のためにわざわざ現地で調査していただきました。当初はアフリカの言語はスワヒリ語しかなく、本のタイトルに「世界」と付けるのはおこがましい気がしていたのですが、ある程度は地域をカバーすることができたと思います。
「古典ギリシア語」が加わったことも大変意義深いものでした。しっかりと文献に裏づけられ、非常にレベルも高いことわざをどんどん集めていただくことができました。ラテン語は元から入っていましたが、それよりも古い、いわば西洋のことわざ文化の源流ともいえる古典ギリシア語を載せることによって、歴史をさかのぼれることができるようになりました。
塵(ちり)積もって山
僅かなものでも長い間には高大なものになるという譬え
[古典ギリシア語]小さな水滴は大雨を生む
[グルジア(ジョージア)]露と露を集めて海になる
[チガ語]少しずつが束になる
※抜粋、本書では原語の表記もあり
――出来栄えはいかがでしょうか?
世界という横の広がりに、歴史という縦軸が加わり、ことわざの世界を広く深く眺めることができる辞典ができあがりました。日本ではこのような辞典はなく、世界でも類を見ないと思います。執筆者や関係者の皆さんに感謝しています。
とくに気に入っているのが表紙のイラスト。金井真紀さんの絵はことわざの素晴らしい紹介になっており、抜群だと思います。
人あるところに、ことわざあり
――時田さんがことわざ研究を始められた経緯は?
そもそもは、大学の元同級生から、本づくりを手伝ってくれないかと声を掛けられたのが直接のきっかけです。ことわざへの個人的な興味は元からあったのですけど、いざ調べ始めてみたら、これがもう面白い。どんどん発見があって、完全にはまりこんだんですよね。
資料は文献だけでなく、いろはカルタや絵画、玩具などさまざまなものがあります。それらを収集するために、骨とう市に出かけたりしました。あまりにもいろいろ集めすぎて、一時は家の中が資料であふれかえり、10年ほど前に明治大学へまとめて寄贈しました。でも、スペースに余裕ができたら再び飽和状態になり、元の木阿弥です(笑)。
――文字や音だけでなく、さまざな形でことわざが残されているのですね。
街に出てウォッチングをしてみても、いろんなところにことわざが使われているのがわかります。広告などの表現はもちろん、神社仏閣などの建物にことわざの表現が彫刻されていたり、着物に柄として織り込まれていたり。研究対象は無限にあると言ってもいいぐらいです。
犬も歩けば棒に当たる
何か行動すると、災難にあったり、反対に、思わぬ幸運にあうことがあるということの譬え
[オランダ]駆け回る犬は、いずれ食い物を見つける
[スペイン・メキシコ]船に乗らない者は船酔いしない
[トルコ]座っているライオンよりも歩き回るキツネの方が良い
※抜粋、本書では原語の表記もあり
――ご自身が研究されているのは日本語ですが、その対象が世界になると膨大な数に……。
地球上の言語の数は諸説ありますが、少なくとも3、4000語はあるはずで、そのほとんどにことわざが含まれています。たとえばドイツには24万語を収録したことわざ辞典が発行されており、各言語にそれぞれ千単位の数のことわざがあるのではないかと思います。それに歴史も考えると、気が遠くなるような数になります。日本の古いものでは『古事記』にことわざが残されていますが、世界となると、メソポタミアのシュメール人がくさび型文字でことわざを記しているぐらいですから。とても一人では手に負えません。
――本書には、戦後からの新聞12紙から採録した「常用ことわざランキング100」が掲載されています。これらのことわざは、どういう方法で集められたのですか?
自分で資料を読んで、使われていることわざを拾い出し、リスト化していく作業をずっとやっています。『古事記』から江戸時代までが約6万例、明治から第二次世界大戦期までが約2万例に及びます。ふだんから新聞を読みながらテレビの音声を聞くのが習慣づいていて、ドラマなどでことわざが出てきたらパッとメモできるようになりました。
娘の「灯台もと暗ししちゃった」に驚き
――さまざまなことわざを知ることによって、ふだんの生活にどんな影響を与えるのでしょうか?
「ことわざ的発想」は、思考の糧となるものです。生活のいろんなところに関係していますから、ことわざから状況を見ることができるようになります。また、ことわざを通して、物事の本質を捉えることができる、ということもあると思います。
――上手にことわざを使うヒントがあれば教えてください。
結婚式の定番のあいさつだったり、いろんな場面で使えるとは思うのですが……。まず何よりも、ことわざが好きになってほしい。私としては、それで十分だと言ってもいいぐらいです。
かつて、私の一番下の娘が幼稚園児だった頃、大切にしていたポシェットがないと騒ぎ始めたんです。でもすぐに、自分の首に掛けていたことに気づいて「灯台もと暗ししちゃった」って言うんですよ。私が資料として集めていたことわざ絵本をたまたま読んでいたらしくて、しかもことわざを「しちゃった」と動詞のように使うので、びっくりしました。
彼女は、そのことわざを自然に気に入って、自分の言葉にできたのかもしれません。だから私たち大人も、あることわざを「いいね」と自分が思ったら、いつか何らかの形で使うことができると思います。あまり難しく考えず、楽しくことわざを使っていただければ良いのではないでしょうか。
灯台もと暗し
身近なことがかえって分かり難いという譬え
[英語]ロンドンのニュースを聞くには田舎へ行け
[ネパール]燭台の下は暗い
[ドイツ]馬に乗りながら馬を探す
※抜粋、本書では原語の表記もあり
――最後に、今回の『世界ことわざ比較辞典』をどのように使ってほしいですか?
この辞典の主眼はあくまでも、言葉の深さや広さ、そして「ことわざってこんなに面白いんだよ」ということを知っていただくこと。どなたにでも楽しく読んでいただける内容です。
小学生でも、今回の見出し語のことわざの7、8割は理解できるのではないかと思います。それを入り口に「世界ではどうなんだろうか」と辞書を引いて、紙の上での世界の旅に出ることができる、と考えています。「こんなことわざがここにあったんだ」という新しい発見を、自分のものにしていただければうれしいですね。